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連載小説「昭和に生きて」第1話第4回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第4回

 私の母は、奥向きの仕事をするよりも、商いの上手な人だった。惰もあったが、母にとっては強くてこわい姑が亡くなると、店も奥も母の独壇場となった。母が店に立つと、店の人達も商品も華やいだ。従って、父は、大きな金庫を背に、愛敬のある顔でゆったりと座るだけ。角帯にお召の前かけをきっちりとしめた昔風の商いの姿。この父の姿が私は大好きだった。店の三軒隣りに、あんぱんの木村屋さんがあり、寒い冬の日は、パン工場のパン焼き釜の近くで、よく宿題をさせてもらった。パンの香りにうっとりしながら、鉛筆を持ったままうたた寝をしたものだ。小さなメリーミルクの缶詰をこの店で私はよく買っていた。この缶にニカ所穴を空けてもらう為、父が暇になるのを店の人口で待つ。毎度のことだから、父の目と逢うなり、それと察して父は手招きをレてくれる。母に叱られぬように、静かに店に入ると、父は太いねじ回しで穴を空けてくれる。しばらくは、父の膝の上で、缶の穴に口をつけ、チューチューと甘いミルクをすい続ける。やがて父は、そんな私の横顔にザラザラをする。ザラザラとは、父の髭のことで、父はよく私の小さなホッペに、濃い自分の頬の髭をこすりつけ。 「ザラザラ」とゆつくり言って優しく笑ったものだ。
「やだやだ」と言いながらも、私はこのザラザラが大好きだった。私にとっての異性への人口は、きっとこのザラザラだったのかもしれない。

 神楽坂には、一丁目と二丁目と三丁目があり、祭りになると、芸者さんがいつもより者飾り、お神酒所の旦那衆も若やぐ。子供達は、小若ばんてんをひるがえし、走り回る。勿論私も小若ぱんてんさ、おきゃん(お転婆)な私は、ジャラジャラと山車なんぞ引いちゃいない。御輿を肩に、今にも水をかけられるのを待ちながら、アゴで男の子を叱咤激励してしまう。喧嘩は年下の子とするのは恥で、六年生を向うに、力じゃ負けるがおきまりなので、喋りで畳み掛けていく。たいていの上級生は、面倒になり走って行ってしまう。力で攻められると、消しゴム片手に、坊主頭をなで切りにする。坊主頭を消しゴムで擦ると、これがすごく痛いのである。
 父が男の子を欲しがったせいか、私は男の子のように育てられた。もっとも、当時としては、母も飛んだ女であったから、勉強さえちゃんとしていれば、たいてい大目に見てくれたものだ。むしろ、それが正義であれば、はなから負けると知った喧嘩なぞするなと言われた。こうして、私はスカートよりも、お気に入りの乗馬ズボンをはき、刈り上げのオカッパ頭をふりふり、夜店のバナナの叩き売りのおじさんに逢いに行く。
 かつて、神楽坂の縁日は、毎夜立ったものだ。古本屋のおばさんの所では、本の立ち読み。アセチレンランプの変な匂いも気にならず、菊池寛著「第二の接吻」を夢中になって読んでいたら、母の手が後から伸びるや、パシッと尻をぶたれた。まずい事に、この本屋さん、うちの店の前に毎夜出ていたんだもの。母の読む婦人雑誌なんぞは、トイレの中。和式が嫌いなのは、今もって同じ。長逗留で腰が痛むからだ。仮性近視になり、いっとき眼鏡を使ったのは、この頃(小学校三年生)だった。だって、昔のトイレのあかりは暗かったもの。子供に乳をふくませている間も、本を手放さぬ母なのに、育ち盛りの読書には、やたらうるさい人だった。

 (つづく)      

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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