2010/09/16
連載小説「昭和に生きて」第1話第2回
連載小説「昭和に生きて」第1話「山の手・下町・たけくらべ」 第2回 私がふるさとと呼べる場所は、さしずめ神楽坂から始まる。神楽坂を登りきった所に「助六」という履物屋があった(現在もある)。そのちょうど向い側に、祖父の代からの、時計・眼鏡・貴金属を商う店。
(祖父は明治初年より横浜の外国人の許で、時計・眼鏡の修業を終え、神田で時計工場を持った人だと聞かされる。ゆえに、横浜と聞いただけで、私の血は騒いでしまう。)
坂の上のこの店で、あの暑い敗戦の夏までを、私は父と共に店を守った。当時、眼鏡を必要とした出征兵士は、最低、三組の眼鏡を大切にそろえて戦場に赴いたものだった。従って、少々の警戒警報では、防空壕に引き込んだレンズ砥石のモーターの音は止まらない。十三歳の夏から、父に教えられたレンズ加工は、どうやら私の身について、たまには、忙しさに理由をつけ、学校を休むと、父と共にじめじめした防空壕の中で、レンズ砥石をまわした。商いの好きな私は、このモーターの熱気が親元を離れた折りにも忘れられず、嫁に行こうが、折々かえっては、レンズ砥石の前に立った。それが、その先、二十六歳の夏、始めてメガネ屋開店となろうとは。所詮、私の一生は、商いと切れようがなく、商いは、私の身体の源流でもあった。
私の幼時は、靖国神杜のそばにある、富士見幼稚園に通った。今、言われる年小組で、おそ生まれなので、四年も通っていた。母がはかせたウールのズボンの裾をひるがえし、赤い靴を音高く鳴らし、四歳の小さな足は、富士見幼稚園の門にたどりつく。
飯田橋駅前では、当時ルンペンと呼ばれる髭だらけのおじさんに呼び止められ、バスケットの中に納まるお弁当を何度も食べられてしまった。怖いおじさんは、手持ちの器に、お弁当の中身を素早くあけ、ニヤリと笑いながら、もと通りバスケットを私につかませる。四歳は、唯々驚いて、おじさんおじさんと大きな声を上げる。おじさんは、日に焼けた茶色の手に、破れた手拭をつかみ、大きく、大きくふり立て、シッ、シッと私を追い払うや、土手公園の松の木に向って走り続けた。
空っぽの弁当箱を持ったままの通園に、先生が家にこられた。いぶかる大人達に囲まれ、私は母の目をみつめ、切れ切れの単語を並べていたのだろう。あくる日より、父方の叔父が通園する私をそっとつけはじめる。或る日、あの茶色の恐い手の上に、背の高い大きな叔父の手が重ねられる。この日より、ひものついたバスケットは、私の肩からのどかにゆれて、幼稚園の門をくぐるようになった。
以来、叔父は午前中の店の仕事をせずに、唄いながら、私と共に通園するようになった。叔父の唄う流行歌は、先生にも、お母さんにも内緒。毎月ゆく宝塚歌劇も、
田園交響楽を聞いたのも、
映画『駅馬車』を牛込館で見せてくれたのも、新宿中村屋のカリーライスの味を教えてくれたのも、みんなみんなこの叔父であった。
叔父と一緒の通園で問題になったのは、幼稚園のブランコにゆられ、私を待ちながら、うっとりと唄う叔父の
「愛染かつら」のメロディーであった。熊手を小脇に抱えた小使いのおじさんに叱られても、シャランとした面長の叔父の顔は、「あら、なぜかしら」であった。この叔父の長い顔は、恐いくらい嵐寛十郎(初代、鞍馬天狗であります)に似ていて、
新宿日活に行った時など、映画館の支配人に呼び止められ、「先生、先生」なんぞと祭り上げられ、ロハ(ただ)で映画を見てしまう。しかし、映画館を出るのに、困り果て、叔父は私をだき抱えるや、しゃれたハンチングを目深くかぶり、モギリ(切符切り)のお姉さんの横をかけ抜けた。
坂のあるふるさと訪で神楽祭り
織りまぜて晒むか江戸の川風
(つづく)
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