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連載小説「神楽坂」第30回

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第30回

 あれからたくさんの月日を重ねはしたが、出逢った男の中に無意識にテツを捜し回っていたハル。テツはハルの落ちた偶像だった。偶像は落ちたまま何も答えなかった。偶像のかけらを拾い集め胸にしまったまま流離うのはハルだけだった。生まれ落ちて双の乳房を共に啜りあった乳兄妹は、愛と掟を越え、恨みを切り捨て理由なく一対だった。ハルの心は今だにけじめがつかず、その部分だけが過ぎた時間の中で浮いている。これは男と女の関わりではない。歩み寄るハルに、テツはこわれものに出逢った目で、垣根をめぐらし遠ざかってゆく。
 一人ぼっちで世の中に躍り出たテツが、今こそ手に入れた地位と名誉に、さぞやと喝采を送ろうとも、年を重ねる程部厚い衣を纏った偶像は、やはり落ちたままとり澄まして答えない。

 生家を後にしてからのハルは、「本当だけが欲しいよ」と、夢中になって男についていった。失うものが多すぎても、無様な裏切りに出逢うと損も得もなく、さっさと身を引いた。貧乏も相手の煩いも、突然の失業も、賭けごとも、アルコールも、ハルに若ささえ残っていたなら、ふりかかる火の粉を運めとして恐れなかった。

 ハルは一度だけ、テツの勤め先を尋ねた。あれは世帯を持ったハルが余程切羽詰まった時だったと思う。街に出ると祖母もテツも当然いなくなった入舟町あたりに足が向いた。昔遊んだ赤石町から入舟町を抜け、疲れ果てて鉄砲州公園のブランコにゆられていた。公園の角に公衆電話があって、なんの考えもなくテツの勤める印刷会社にダイヤルを廻していた。昔を尋ね歩いたハルは、昔に甘えていた。会社がひけたテツに連れられ、銀座へ出るとテツが行きつけのバーに入る。薄暗い照明に美しい女の人が浮かび、不安定なとまり木に腰掛け、きれいな色のお酒を前に、物珍しげにあたりを見廻す。飲んでいるだけで何も言わないハルに、テツは黙って五百円札を一枚、ハルのポケットに押し込んだ。

 悲しさと情けなさに追い立てられ、なつかしい筈の銀座の街をハルは足早やに逃れた。華やぐ銀座の街は、ハルにとっては、今もって華やぎようもない。橋のなくなった銀座なんかに鴎はもう飛ぶものか。思えば、心の底に刻みついた入舟町は、くすんだ墨絵として今も浮かびあがり、神楽坂は極彩色で踊り立つ。
 テツとハルの出発点は、祖母と母の乳房だった。掛け替えのない二つのふるさとは黄泉に旅立ち、テツとハルは、残る時をいさぎよく生きるべき知命の年に入った。
 
 (つづく)

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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