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連載小説「神楽坂」第28回

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第28回

 結婚二ヶ月目、ハルは身籠もった。水沼も当初は、よき主人でいたが、銀座のお酒の味を覚え、金の工面はハルまかせ、酔って帰ればリンゴの皮をむくハルに躍りかかり、「可愛い、可愛い」と繰り返しわめき、ハルの持つナイフを奪ってハルの手首に切りつける。たまらず友人の許へ隠れるハルを、新聞社を幾日も休んだ水沼がとことん追いつめ、ハルを見つければ、又もや、「可愛い、可愛い」と連れ戻り、強く抱いてハルの首をぐぅーと絞める。意識の切れる手前で必ず手を離す水沼。あたりがかすんで、「オカアサーン」と呼ぶ声の下から、自分を何故呼ばなかったと水沼はなおもハルを責める。ハルの首筋には所々紫の斑点が滲んで、それに気づいた友人は、キス・マークだと言って冷やかした。ハルは笑って頷くだけ。こんな筈ではの涙は数ヶ月で始まっていた。そのうえ、酒と奇行は芸術家の常識だから、妻たるもの堪え忍んでこそ当然と、優しさと激しい感情に叱咤され、お腹の子を庇って、言うに言われぬ恐ろしさ、水沼との世帯は、ハルの実家の店に近い。強い悪阻の身体を引きずり毎日実家へ通う。給料はほとんど飲んでしまう水沼では、頼るべくもなく、名目だけの店の手伝いに、ハルの父は多分の金を小遣いと称して、ハルに手渡す。ハルはその金でせっせと出産の仕度をした。母はお襁褓(おむつ)を縫って初孫の誕生を待つ。祖母は中風で倒れ、入舟町の店を引き払い母の許に居着いた。テツは、学生生活を終えて山の手線恵比寿駅前に眼鏡店を開いたが、意に染まぬのか店はつぶれて、印刷会社に転職した。入舟町の祖母は、ハルの母の許でこれより九年後生涯を閉じる。初めての曾孫を喜んだ祖母は、綿入れの産着の縫い方を震える不自由な手でハルに教える。少しづつ縫い上がる浅黄色の産着を、ハルは頬に当て撫で回す。肩上げを縫い付け、紐をつけ終えると、赤ん坊が着込んでいるかのように、産着を抱いて部屋をぐるぐる歩いて、よしよしと声をかけ身体をゆする。

 ひどい悪阻が納まりかけたある日、教師となったタカちゃんが何も知らぬままハルの実家を尋ねた。彼に出逢うと、ハルの身の廻りが昔にさかのぼり、久しぶりに穏やかな気分になった。本当なら彼の胸に取り縋って泣きたかったが、さも幸せな振りをして、駅前の喫茶店で笑い合って別れた。相変わらず優しい彼は、「本当に幸せなの」と幾度もハルに尋ねる。ハルは目を細め幸せの顔をする。そろそろ目立つお腹の中で、ハルを蹴り上げる小さな命。駅の改札を抜けてもまだ手を振っている懐かしい愛に、無念も縋れずハルは踵を返した。

 (つづく)


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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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