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連載小説「神楽坂」第24回

連載小説「神楽坂」       第23回

第24回

 梅雨あけの雷が夏雲を誘う頃。父は病いに倒れた。針程の傷口が見る間に腫れあがり、父の腹は赤く膨れ質の悪いできものだと言われた。母の従兄弟に、外科部長として清瀬の全生園に勤務する昇伯父がいて、看護婦さん一人連れて家の離れで、父の腹を手術する事になった。普段から気の強い母なのに、「立会人は御遠慮、御遠慮」と青い顔で急にハルに向かって、「お前、しっかり見て置きなさい」と言うなり、奥の仏間に立て籠もったまま出てこない。ハルは仕方なく部屋の隅に固くなって正座した。気の弱い父は、昇伯父に手をあわせ、「頼みます、頼みます」とくり返す、「大丈夫、大丈夫」と伯父。局所麻酔をふくれた腹に打たれ、うつらうつらする父は、足許に座るハルに、意味もなく声をかける。呼ばれるハルは、その度にしっかりと返事をしていたのだが、意識が朦朧として医療器具の音が時々途絶えだすと身体が畳に吸い込まれた。もう解らない。父の寝所と真向かいの部屋で夕方になって目覚めた。腕に注射の絆創膏がひとつ。その後、昇伯父は、ハルに出逢う度に言う。「立会人、ただの一人もなし」。されば、「面目なし」。
 伯父は、病院の勤めが終わると父の傷口に詰めたガーゼの取り替えに立ち寄る。ハルの家から先は、畠が道の両側にしばらく続き、遠い森の陰から伯父の乗る自転車がでこぼこ道をゆっくりとやってくる。小さな妹の手を引いてハルは夕暮れの畠に立つ。伯父をみとめた妹が父に告げに離れにかけてゆく。父は晒しを巻きつけた腹を撫でながら大きなため息。後年、「生きながらの切腹でした」と、まるで侍であったかのような気分で話す父の横で、ハルは我がていたらくもふくめて、幾度も笑いをこらえた。
 母は父の手術が済むと、すぐさま東京の店へ。妹のカズは当たり前の顔で、母の後について東京暮らし。三女ヒサ、長男正一、四女トモを預けられ、ハルは痛みに夜通し眠らぬ父と共にお留守番。母がいなくとも、母からの指令の紙切れを手に、カズが毎度戻ってくるから、母が扱う品物の集散は相変わらずだが、尋ねてくる人に活気がない。
 一ヶ月もたつと父はふとんの上に起き上がり食事がとれるようになった。こうなると、久米川から清瀬の全生園まで外来として通う。リヤカーの上にふとんを敷き、先ず末っ子のトモを乗せ、離れの濡れ縁にリヤカーを横着けにして、海老のように背中を丸める父に肩を貸し頭を高くなだらかなふとん上にそっと寝かせる。週に三回傷口に太陽灯を当てに出かける。ヒサと正一は登校中なので、昼までに戻らねばならないから、一番乗りの診察に間に合うよう、朝露の消えないうちに出発だ。母の言い付け通り、みんな麦わら帽子をかぶり、ハルはリヤカー付きの自転車に跨る。重いペダルに目一杯体重をかけて自転車をこぐ。朝風渡る畠の中を、トモが飽きぬようにハルは唄い出す。「桃太郎さん、桃太郎さん・・・」。すると後で父が、「別段、宝物を積んだいる訳でもあるめえし、ほかの歌にしな」。そりゃ、ごもっとも。「だけど、命も宝だって」と、ハル。「すぐそれだ、お前は母さんに似て理屈っぽいから、かなわねえ、勝手にしな」。ハルは首を竦め、ハンドルをぐいと握りざまふり向く、父が瞬く目を逸らした。諦めよく母の後も追わず、手のかからぬトモが遠くまで出かけて来た嬉しさか、きょろきょろと御機嫌だ。ハルは覚えたての、ユーアーマイサンシャインを口ずさむ。「ハイカラだねえ」と父が言った。

 (つづく)

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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