2009/11/08
連載小説「神楽坂」第22回
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日の丸鉢巻きを解き、教科書に再び向かい始めた頃、担任の国文の教師は国語研究会をつくった。同好の志が寄り合い、ハルもその末席に連なった。ハルは、アナウンサーに成りたかった。言論の自由という活字に惚れ惚れとし、生まれたての男女同権に目を輝かせた。だから当然大学へ行きたかった。国文の教師は頑張れと声援。ハルもその気になったが、ゲンの進学を思えば、五人弟妹に父と母、祖母を含めた九人家族では、教育よりも毎日食べて通るのが精一杯だった。男女同権の活字は巷に踊っても、各家族には生き抜く為の順序があった。父の年齢と末っ子トモの年齢を数えれば、どうしてもとは言い出せずに涙を飲んだ。大学受験者は、女子校でもあり、この世相では学年で十指にも満たなかった。諦めたハルは、せめてせっせと本を読み、詩作し希みを文字に書き飛ばした。国語研究会は、ハルを一人残したままやがて解散した。
卒業がせまるがハルはさほど別離を悲しまない。学校も友人も東京。足さえ運べば遇えるのだから、サイン帳が廻ってきてサインはするが、サイン帳を廻す気にもならなかった。
現在、跡形もなくなった赤煉瓦に蔦のからまる角筈の校舎。時の将軍が鷹狩りの帰途、鞭を洗ったと言い伝えの策の井。事も無げに飲んでいたこの名水も今や新宿のビルの谷間にブルドーザーの音もろとも枯れ果ててしまったか。
ハルは、新宿西口駅前に年を経てたたずむ。いつも節水の水が立ち上がらぬ噴水と、痘痕のように防空壕が散らばる公園跡は、さんざめくバス・ターミナル。当然見えるべき筈であった赤煉瓦と蔦の葉の緑が雑踏の間を分けて、一瞬よぎる。
現在の音を消して目を瞑れば、記憶は欲しいままにさかのぼる。散会した後の出陣学徒が、三つ編みの女学生と日暮れの公園で出逢う。ベンチの鉄の部分も、柵の鉄鎖も弾丸に変え飛ばされて、めぼしい立ち木は、どこかの家の竈の灰になった。名ばかりの裸になった公園で、不器用に互いを見つめ、無言のまま手を握り合う二人。時局は若者から恋まで奪い、突きつけられた別離で終わっていた。
(つづく)
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