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連載小説「神楽坂」第20回

連載小説「神楽坂」       第19回

第20回

 戦災を免れた入舟町の一角はさして変わらない。変わったのは、街中をG・Iが散歩して、聖路加病院のステンド・グラスが戦時中よりも輝きを増し、軒並みの家々が目立つペンキで化粧し、疎開先から戻らぬ人で代替わりもあるが、人気は昔通り。店の上の八畳間は、相変わらず仏壇の線香の匂いが染みつき、白髪のふえた祖母のキミを挟んで、一つ違いのゲンとハルが眠る。

 近頃のハルは身体が妙に懈く。詰まらぬ事で苛立ち、乳房が疼く。訳もなく涙が溢れる日は母の許へ帰り、近くの小高い丘の裾にある尼さんの庵にゆく。散歩の途中、托鉢する尼さんの姿に思わず手を合わせたハルに、尋ねる度に粥を炊き、お茶をたて、迷える小羊に鬱陶しくならぬ程、法を説く。経本を開いて「大般若」を唱えれば、生きているだけでどこか汚れてしまうと思い込むこの頃の恐れから、すんなりと這いだし、また入舟町からから学校に通っている。母は食糧の確保と子育てにかまけ、父は商いに忙しく、祖母の側での時の自由さにハルは寄り掛かっている。ゲンは大学受験を控え図書館通い、遊びも勉強もハルにはもう手が届かず、ゲンが何を考えているのやら皆目解らない。朝から細い雨が降り続く花冷えのこの頃、校庭は櫻の花片を頻りに吸い取る。友達はそれぞれ軽い恋をくり返し、ハルはたのまれてラブ・レターの代書をする。手数のかかる恋物語には、恋の相手にそれとなく引き逢わされ、後日感想を迫られる。恋に恋する幼さは千切れ雲に似て淡い。やたら神経のみ先走るハルだが、発育不全なのか身体は友達からおいてけぼり。

 めっきり早く眠るようになった祖母の隣で、ハルは眠たいくせに本を読み流している。バレー・ボール大会が近づいて、背の低いハルは後衛でサーブの連続練習。太腿の付け根から先はふとんの中で溶けてしまったように懈い。隣の部屋では遅くまで勉強しているゲン。ぐっすりと眠りこけたハルは、真っ白で太い蛇の夢をひたすら追う。祖母の実家の三番蔵には白い大蛇が住み着き、家に大事ある年は蔵の屋根に這いだし吉凶を告げると、これだけは真顔して母が言う。
 この言い伝えに色を付け想像を展開させ、ハルは幻の夢を折折に見る。土蔵の蔵の壁には、織りなす葉が登り立ち禿げた荒壁の木舞いの間に名もない草がとり縋り、一歩踏み込めば薄暗い天井にとどけとばかり籾が積まれ、小ネズミの光る眼が隅に潜む。この三番蔵の前を通りかかるハルは、そっと蔵をひと回りするが、妖気が伝わったか、もつれる足に驚いて、一目散に逃げ出す。今、ハルは真っ白で太い蛇の夢に酔いしれる。三番蔵の小高い窓から白い蛇はのろのろと這い上がり、痩せた大人の胴ほどもある真っ白な肌をぬめぬめと妖しく輝かせ長々と屋根に寝そべる。深紅の伸びる舌をペロッと出して屋根にかかる欅の枝に巣くう小虫を器用に食う。あたりの音は静止し、色の無い背景の中で深紅と金色に変化した白い肌が鮮やかに踊り狂う。蛇の息遣いがハルの耳許にせわしい。ハルは今、真っ白で太い蛇の夢に酔い狂う。いつしかハルは、恐ろしい筈の蛇に猛く寄り添われ、輝く身体はハルに優しく、深紅の細長い舌はハルの首筋を伝う。三番蔵の屋根は程良い陽射しを受け、広く暖かく柔らかい。
 気怠さの中で縮かんでいる身体を伸ばし寝返ろうとすれば、やおら熱い塊が全身にむしゃぶりつき、腰と胸元の自由を奪った。これは妙だ。これは夢なんかじゃない。これは蛇ではない。これは何だ。身体が動かない。息がつまり喉が渇く。祖母の鼾が隣で折折途切れ、軒を打つ雨音が激しくなった。家中のあかりは消え、突っ張ったハルの身体に蛇ならぬ人間がひたと被さっている。もがいてのび上がれば、歯の根が合わぬ、震える口びるを燃える口がふさいだ。やみくもに逆らう腰に痛みが頭の芯を突き上げ、生命が走った。鈍痛と涙が残った。震える身体は言葉なくするすると立ち去り、ハルの身体から零れ出たものに、優しさも、約束も、夢もなかった。惚けた頭で残されたぬめりを枕カバーで拭った。青草の匂いがジトジトとしたふとんに籠り、手洗いに行きたいが身体を動かすと、声を上げて泣き出してしまいそうで、明け方まで切なく堪えた。

 空が白み、強張って血の染みた枕カバーを音を立てぬよう手拭いでくるみカバンの底に入れた。気が付くとハルは、雨上がりの街なかを玩具のように走る一番電車に乗っていた。店は戦災に会い、もうそこには座る場所もない筈の牛込見附で電車を降り、神楽坂は見上げただけで、朝の土手公園にたどり着く。ハルの松の木達が昔通り手を広げて待っていた。芥箱の中へ血染めの枕カバーを細かく裂いて捨て、しばらく行ってまた引き返し、捨てた布の血色の個所を暫く指先で突いていた。新しい涙をふりきり松の木に登る。腰にしっかりと力が入らず、身体の中に異物が残されたままのようで変にぎごちない。松の木の上で止まらぬ涙を頬に受け、神楽坂を見やり昔を思う。人通りが始まり学生の歩く姿が増してゆく。全身が昨日の自分と変わったと見とがめられる恐ろしさに、ハルは今日学校へ行くのをやめた。冷えた血が駆け回り眩暈がした。すれ違う人の目が見透かし追い立てる幻覚。中央線の車窓に写る自分の顔の白々しさ。

 誰にも言えぬ心のうちは、やっぱり、「オカアサーン」。昼近くに戻ったハルは、頭痛で早退したと母に言っておく。青草の匂いが纏い付くまま、離れにこもりぐったりと眠る。夕方、何も食べないハルに母がお粥をつくった。起き上がったハルは寒気がして乳房が張った。ふらふらと手洗いに立ち、あわてて手洗いから転び出た。「わぁー、血が止まらない」。震える腰から下の感覚が突然敏感に発達して、女のスタートを切った。手洗いの前でいつもより優しい顔の母が、大人への仕度を手にして待っていた。それはこれから女として生きる為、あらかじめきめられた通行手形に見えた。
 明くる朝、母は赤飯を炊いた。ハルは学校を三日間休み、四日目母のサイン入りの生徒手帳をもって登校。始めて体操の時間見学。友達が目配せをした。ハルはうわ目使いでコックリをした。

 (つづく)

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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