2009/07/02
連載小説「神楽坂」第15回
連載小説「神楽坂」 第14回へ
第15回 今日はまだ警報が鳴っていない。警報に出会うと電車が止まり、酷い日は線路の上を小犬の様に歩く。肩からかけた水筒と、手縫いの布カバンの中には、米と梅干しと味噌。父が無理に持たせる防毒マスク。赤チン、メンタム、三角巾。唐草の大風呂敷に、手放せぬ愛読書一冊。背中に廻した防空頭巾。これも父が無理に持たせる鉄兜。
「鉄兜は顔が洗えて飯が炊け、水を汲めば火が消せる」と父はしつこく言う。
身体を取り巻く七つ道具は、明日をも知れぬ青春の肩に食い込み、飛行機雲が真綿を引きのばしたように浮かぶ日本の空を仰ぎ、神風は本当に吹いて呉れるのだろうか、なぞと。
中央線は意外にスピードを出して走るから、国分寺廻りで家に帰る。遂に三鷹の少し手前で今日も無慈悲な警報が鳴った。三鷹の駅で停車。乗客は改札口から駅前の防空壕へ。馴れた足どりで素早く待避。はるかの空から翼を連ねた大編隊がごうごうと音高くやってくる。壕の入り口にいたハルは、広場の中央に叫び声をあげる白い塊を見つけた。人間だ。割烹着を着たお婆さんだ。「白は殺られる!」。咄嗟にハルは七つ道具をかなぐり捨て、カバンの底から唐草の大風呂敷を引きずり出し、急いで被る。教練の時間に習った匍匐前進で震える白い塊へと近づき、両手に掴む大風呂敷を我が身諸共がばと覆いかぶせた。
「動けますか」聞いてみるが目をむいて取り縋るだけ。
「少し苦しいけれど、我慢してください」
ハルはお婆さんの身体の下に潜り、風呂敷を飛ばぬようにしっかり掴み、お婆さんを背に乗せたまま、じりじりと這いつづけた。やっと防空壕に辿り着いた。すると、壕の中で拍手が渦巻いた。見る間に広場も防空壕の周辺も、低空で飛ぶ敵機のあげる土煙りに包まれた。壕の奥で「中島飛行機がやられるな」と誰かの声。
お婆さんは鼻水を啜りハルに手を合わせた。ハルは照れて大きな目を擦ると、今頃になって身体がぶるっと震えた。手持ちの梅干しを一つ囓り、水筒の水を喉を鳴らしてごくんと飲んだ。警報解除に、今日も助かったかと、動き出す電車に乗る。気が付くともんぺにつけた大切なピンクのリボンが無くなっていた。
(つづく)
第16回へ
にほんブログ村 ←こちらをクリックよろしくお願いします。
スポンサーサイト
コメント