2009/06/24
連載小説「神楽坂」第14回
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第14回 弟の下に妹が生まれ、ハルは五人兄弟の総領になっていた。空襲は益々激しくなり、夜空から照明弾がゆらゆらと落ちてくる。初めて空から落ちてくるあかりを、爆弾と勘違いして、隣の桑畑の中をハルは三女ヒサの手を預けられ、家族全員で右往左往した。毎度、我が家が標的であるかのように、遙か彼方で急降下した敵機は、我が家の真上で急上昇する。双眼鏡を構えてその敵機に視点をあてれば、鼻の尖った外人の顔がハルの目にはっきりと写った。「見えたぞ、見えたぞ」と大声張り上げるハルに、「爆弾を落とされたら大変でしょ」と母はきつく叱り、双眼鏡は取り上げられてしまった。
出がけに水盃でも済ませた目付きを母と交わし、ハルは大崎の明電舎へ通う。疎開もせず下町から通う友が或る日死んだ。総理大臣をたまたま父に持った級友は、いつからか姿を消し、もはや誰も彼女の行方すら尋ねるゆとりを無くしていた。毎日が戦いのニュースと警報のサイレンに追い立てられ、戸惑いながら過ぎてゆく。母の鏡台の奥に大切にしまってあるリボンを取り出し、もんぺの腰の左隅に小さく結び付けた。誰ともなく始めたこのおしゃれは、日の丸鉢巻の下にすら隠しきれぬ青春の証だった。
新宿で共に乗り換える洋子ちゃんと、ハルは早めに工場を出た。新宿の中央階段の下で待つという、洋子ちゃんの恋人に引き合わされる。早晩、出陣学徒として立ち去る大学生は、軍服の似合いそうな凛々しさ、丈高い身体に詰め襟の学生服、艶の出た破帽に手をかけ、かるく挨拶を交わすと、腰に挟んだ手拭いを抜き取って、額の汗と手の平を擦り、約束の本を洋子ちゃんに手渡している。
「もうすぐ、この人ゆくの」と、俯いたままの友は微かに首を振る。世間の大人達が言うように「おめでとう御座います」などとは決して口にすまいと、ハルは唇を噛んで頭だけ下げた。その時、どうした事か洋子ちゃんの穿いているモンペが、腰のボタンでも千切れたかストンと足首まで落ちた。衆目を庇った恋人は洋子ちゃんに背を向けぴったりと張り付き、ハルも友の背に駆け寄る。思わぬ出来事に口をポカンとあけたままの友は、気付くと身を揉んですすり泣いた。戦時下にせよ、際立つ美貌は隠しがたく、将来、服飾で身を立てたいと口癖の彼女は、日頃からおしゃれ隠しの天才を自負していたから、恋人の前で今流す涙が痛ましかった。黒地に黄の小花模様の服地で仕立てた。形の良いモンペは、やたらの人には手に入れぬ。先程からちらちら眺めていた周囲の女の目は、、美しいレースをたっぷり使った下着が現れた。いくつかの古着をかき集めて夜なべに工夫の友の作品とはこれだったのか。美を敵として見なすよう躾けられた国民は、羨望を冷たい怒りに変え無言で友を射る。ハルはそれらの目に立ちはだかり、不当な目を見返して廻る。ハルの背に彼女を思う恋人の荒い息が聞こえた。
泣く友の耳に口を寄せ、「時間の方が大切よ」と手持ちの安全ピンをハルは二個渡す。素早く身仕舞いを終えた友の肩を突然とんと叩くハル。よろける彼女を恋人が優しく抱きとめるのをハルはニヤリと見とどけ電車に乗る。
ハルは遠ざかる友に、束の間であれ幸せあれかしと喝采を送った。目隠しされた青春の合間。寸時なりとも解き放されたこの爽やかさ、車窓から入りくる初夏の風を受け、ハルの背の三つ編みの髪は若い生命をたっぶりふくんで揺れる。
(つづく)
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