2009/06/22
連載小説「神楽坂」第13回
連載小説「神楽坂」 第12回へ第13回
徴兵年齢が一年引き下げられ、第一回出陣学徒壮行大会が神宮の森で行なわれ、ハルの学校の生徒はこの式に真っ先に列席する。カボチャの父上の甲高い演説の声は、降り止まぬ雨足をつき破り、神宮の空にわだかまる雨雲を走らせる。学生服にゲートルを巻いた足並みは雨を蹴散らし、目深く学帽を被った行進は長く長く続く。銃を担ぎ肩から斜めにかけた日の丸は点々と雨に濡れそぼち、血の滴りを思わせた。みんな往ってしまう。みんな死に急ぐ。涙と雨が顔に流れ、薄ら寒さが襲い、歯がカチカチと鳴った。
学徒動員が本格的に決まり、下級生は学校で作業、教室に黒い幕が張り巡らされ、我々上級生といえども立ち入り禁止である。我々の通う工場は、大崎の明電舎。通信機の部分品の作成。大都市に疎開命令が出され、田舎へ帰れぬ学童は、集団学童疎開に加わる。家庭用の砂糖配給停止となり、町のそこここに雑炊食堂が開かれた。
父は、入舟町のお婆ちゃんの実家東村山の近くへ、一反の農地を手に入れ、その中央に家を建て、残る三分の二は畠とし自給自足の生活に入った。建てて間のない江古田の家は父の友人に貸し、入舟町のお婆ちゃんは、ゲンを連れ店を知り合いの同業者に貸して東村山に引っ越して来た。
ゲンもハルも、朝早く起きて東村山から東京の工場へ通う。父は、大八車を手に入れ、焼けぬ内にと神楽坂から遠い道のりをものともせず荷を運ぶ。禿げた頭に濡れ手拭いをのせ、身に余る大八車はあべこべに父を引きずる。憑かれた父はひたすら荷を引く。父の身体はみるみる陽にやけ、小物の時計修理は手が震えて出来なくなった。人も車も戦に刈りだされ、必死で自分を守らねばならぬ時代に入った。
三月にはB29の東京大空襲。江東区全滅。五月の大空襲では、都区内の大半が焼失した。神楽坂と江古田もすべて灰になってしまった。夕方、畠で何をするでもなく立ちすくむ父の後姿に、食事を告げに出たハルは、声もかけられず、惚けた父の肩に子として初めての老いを見た。
(つづく) 第14回へ

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