2009/06/08
連載小説「神楽坂」第12回
連載小説「神楽坂」 第11回へ第12回
高村光太郎氏の「智恵子抄」が発刊され、北原白秋氏が亡くなられた。学生生活は奉仕の明け暮れで、勉強時間が少なくなった。すべて命令の枠の中で動いている。何やら口に出せぬ不安に、唯々ハルは本を読んでいた。ハルの家には、父の本箱と、母の本棚がある。父の本箱の方は、豪華なガラス戸付きの中に、さして手垢にもまみれぬ本が数少ないもたれ合っている。岡本綺堂の「半七捕物帖」の分厚い紺の表紙にはじまり、中里介山の「大菩薩峠」と、隣には薄い和綴じの川柳の本が雑多に並べられている。どの本を取り出しても、一向に叱られないが、川柳の本にだけは手をふれても父は叱る。酒乱の父親と、目から鼻に抜ける母親、手のつけようのない遊び好きの弟を身内に、日がな使用人の目に囲まれ、妻に気兼ねのこの当時、父がたった一つ通した道楽が川柳であった。
ハルが幼稚園の時、父に手を引かれ、たどりつけば一人で遊ばされたのは、向島の百花苑であった。細長い紙を手に、考え込んでいる集団の中の父は、家では見られぬ顔付きして楽しそうだ。ハルがおとなしく父を待てば、戻り道、浅草の松屋で好きなオモチャを買ってもらえる。川柳を「カワヤナギ」と始めに読んだハルが、あの時の集団の中で一番偉かった人はと、すぐる父に尋ねたら、川上あめんぼうと言い、その後、川上三太郎と名乗った川柳の神様だと教えられた。思うに、気の小さい父のせめてもの憩いは、斜にかまえた川柳の世界にこそあったのだろうか。
母の本棚の方は、まさしくリンゴ箱の廃物利用で、ざらつく板に色紙を張り付け、控え目に部屋の隅につられている。控え目に置かれた程には、本の数は多く、本の内容は父の考えを突き抜けて大胆で、谷崎潤一郎の「痴人の愛」「蓼食う虫」など、母の本棚から、ハルが繰り返し読んだ本には、賀川豊彦の「死線を越えて」と、「太陽を射るもの」がある。いつからか、この二冊の得がたい本は消えていた。翻訳物は、軍医で戦に往った母方の昇叔父の本棚を漁った。カビくさい蔵の二階、わずかに差し込む陽を頼りに、セピア色に乾いた古本の匂いは、たぎる青春に安息をあたえてくれる。昼は、勤労奉仕、夜は読書、まるでインクのスポイトのようにハルは活字を吸い上げていた。
(つづく) 第13回へ

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