2008/02/10
連載小説「神楽坂」第4回
連載小説「神楽坂」 第3回へ第4回
明くる日は日曜日だった。
テルはオヤツを片手に、登り馴れた土手公園の松の木の上で、遠くなった入舟町の空を見ていた。
昨夜からざわつく家の空気を嫌って松の木から松の木へ見える筈もないのに入舟町を全身で見ていた。
忙しい商家は、夕方になってテルのいないのに気付く。店員の健どんと清どんをせき立て、父は自転車にまたがり、三方に別れ走り出す。
「ちんどん屋の好きなテルの事です。また、ふらふらと後にくっついて・・・」と、走り出した三人の背中へ母が叫んだ。
土手公園の数々の松の木はテルの物思いのハンモック。登れぬ松は逓信病院の前にそびえる、太くて高い老木だけ。松の木だらけの土手公園は、飯田橋から市ヶ谷見附を抜け四谷見附まで、お堀を眼下に見て長くのびる。セーラー服と詰め襟の影が、幾組も夕陽を浴び、土手の斜面で絵になる。お堀のボート屋さんの提灯が、ずらりと祭りのように灯る頃。一組の影は、テルの登っている松の根っ子に腰を降ろしてしまった。詰め襟が皺だらけの手拭いをのばしながら、気恥ずかしげにセーラー服の座る場所をつくる。セーラー服がまっ先に、ハンカチを取り出し、詰め襟の足許を軽く叩きうながす場合もある。
息を殺して、見下ろすテルには、聞き取りにくい二人の会話の所々をつなげても、ちっとも面白くない。このカクレンボこそが面白いと思っている。
すすり泣くセーラー服に、謝る詰め襟。果ては、とばっちりが松の木に及び、男が盛んに松の木を揺すりだす。この手合いは、初めから騒々しい。落とされまい松にすがるテル。手の平に血がにじむ。今日のテルは、オシッコに行きたくなった。下を見れば、二人仲良く顔を寄せ合った所。なんだか、声をかけるのが悪いなぁと思っては見たが、「あのーっ」と、上を見上げたセーラー服が飛び上がった。テルを見るや詰め襟は、舌打ちをしつつ、松の木を揺すり、唾を吐き、セーラー服の肩を抱きなおして立ち去った。
二人が遠ざかるのを確かめ、テルはするすると地べたへ、つつじの裏側でオシッコする。さっぱりとした腰をふりふり、飯田橋駅前に立つ。
両側の商店のあかりが、神楽坂を浮き上がらせ、まるで、天国行きの滑走路だ。春の神楽坂は、扇模様の石畳に、滑り止めのギザが入れられ、お化粧直し。すり減っていた扇模様がくっきりと美しく、半玉さん(芸者になる為勉強中の人)の襟足に似て、青白く真っさらだ。春雨なら、扇模様のくぼみを面白く雨が伝う。所々に、小石を詰めれば、思い通りに雨水はくぼみを走る。
テルの道草は、赤いゴムガッパにランドセルを背負ったまま。流れの強い「さわや」の前にしゃがんで、この遊びに時を忘れる。梅雨時は「白木屋さん」の広い店内が寄り道コース。化粧品を並べたマネキンさんに呼び止められ、夏のお化粧の実験台にされた。玩具売場はテルの根城。母と仲良しの女子店員さんに可愛がられ、地下の「月ヶ瀬」であんみつを一杯。優しい美男子の店長さんがいる「白木屋さん」。
(つづく) 第5回へ

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