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連載小説「昭和に生きて」第2話第1回

連載小説「昭和に生きて」

第2話「怪物のような民主主義日本上陸」

  第1回

 昭和二十年九月一日。我々学徒は、工場(大崎明電舎)から、新宿の校舎へ戻った。
 赤煉瓦の枚舎は、外側だけが残り、内装はすっかり焼けただれ、火事場の匂いがなかなか抜けない。
 戦に負けようとも、校舎の外壁を伝う、なつかしき蔦の葉はたくましく、久しぶりの我々の登校を緑のもろ手を広げ迎えてくれた。つい先頃まで、「天地正大の気、粋然として神州に」に始まる藤田東湖の詩を、毎朝の朝礼で吟じていた私達は、戦が終わるや、リンカーンの、ゲティスバーグでの演説文。「人民の、人民による、人民の為の政治」と、タコ壺防空壕が手付かずに散在する校庭で唱和していた。勿論、涙ぐましいカナフリの英文であった。
 戦時中、突然の英語禁止の国策に出逢い、今更、省略された頭で高学年用のリーダー抱えさせられる身の不運。教科の差し戻しもなく。教育界の慌ただしい変貌の狭間であえぎまくる我々であった。
 むき出しのコンクリートに黒板を立てかけ、すすけた机と椅子が取り合えず並ぶ教室。新渡戸稲造、内村艦三の足跡が語られ、駆け足の民主主義が校舎を包みこんでゆく。
 体操の時間はかつて、すきっ腹にスコップを握り、必死で掘ったなつかしのタコ壷防空壕の埋め立て。
 「第三分隊の第一班は北側へ」なんぞと、先生のかけ声は決して轟き渡らぬが、命令されなくても、自分の汗で堀ったものの位置は悲しくも覚えていた。
 深さこメートル五十センチ、直径一メートルの一回も御使用なしのタコ壺防来壕にかけ寄れば、「おんなじ、あの時と同じ」、同じ顔ぶれが同じ記憶をたどり、同じ場所に立っていたのだ。かくて同期の小桜達は、もう決して掘るまいぞと、新しい土の上を、スコップで叩きまくり、お下げの髪をゆすり上げた。
 校庭は高い塀に囲われてはあるけれど、塀の隙間から見れば、新宿の西日駅前は一望なのだ。
 突然日本上陸の民主主義は、まずは世論をからめ取り、いまどきの宅患便の素早さで生情報を我等に手渡して行き過ぎる。
 生まれ変わる日本の秋が、厳しさとアンバランスな自由を宿題に、日々、目の前にあった。


 ニヒルだと言われしは春、物言わず過ごせしは夏、
 立ち止まり泣きしは秋ぞ、センチメンタル

                                  (戸惑う十五歳作)

 (つづく)      

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連載小説「昭和に生きて」第1話第6回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第6回

 数寄屋橋には、恩い出が詰まっている。たしかに、橋があって、橋の下には水が流れていた。カモメが水平線すれすれに飛び交っていた、ああ、数寄屋橋。 『君の名は』・・・春樹・マチ子の数寄屋橋。三輪車で数寄屋橋を渡り、日比谷公園まで遠出したら、日が暮れてしまった。迷子になったかと、御近所のおばさん達まで御親切に、あわててくださった。五歳の私は、新しい道を覚えた嬉しさに、偉そうな顔で三輸車コトコトと戻ったら、優しいおばあちゃんが、角の桶屋さんの前で涙ぐんで立っていた。あたしは、自信があったのに、ただ、日が暮れちゃっただけなのだから・・・訳も解らず、おぱあちゃんに飛びついた。おばあちゃんの涙しょっぱかった。
 小学枚一年生で、支那事変が始まり、小学校六年生の十二月八日、大東亜戦争勃発。カーキー色が街中にあふれ、「ぜいたくは敵だ」のポスターも貼られたが、ぜいたくって神楽坂のオセンベイの名前さ、なんて、酒落者の叔父が、だじゃれを言った。街から原色が消え、白地に赤い日の九だけが目を射る。
 チャンバラゴッコは、戦争ゴッコに変わり、男の子は大きくなったら、陸軍大将になるんだと目を輝かせ、女の子は従軍看護婦さんになると、あたり前のように答えていた。
 隅田川の花火大会は勿諮中止で、それに代わり、東京の夜空を探照灯の高く長い光が交差しながら、我がもの顔に走る。とんとんとんからりの隣組のおじさんも、おばさんも、どんどん疎開をはじめ、田舎のある友達は、田舎へ転校し、お教室の机は、空いた椅子を抱え、ボツボツと寂しくなってしまった。
 わが家も、大磯にある家を手離し、東村山に土地を買い、家を建てた。疎開である。小さな妹と弟は転校。母について引越してゆく。入舟町のおばあちゃんも一緒。東京の家族がばらばらにくだけて行く。不足と不満が街中にみなぎり、景色が灰色に染まり。人々は沈黙した。

 (第1話了 第2話へ続く)      

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連載小説「昭和に生きて」第1話第5回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第5回

  京橋入舟町の店では、乳母日傘(おんばひがさ)で育ったといわれる祖母が、時を忘れる程ゆったりと優しく、この祖母の笑顔に許され、好きな時間がたっぷりと使えた。私と一つ違いの源叔父とは、叔父・姪でもあり、乳兄弟であった。二十歳で私を生んだ母は、心膿脚気の気味で、産後の日だちも悪く、前年源叔父を生んだ祖母の乳を私は祖母乳として頂戴していた。この叔父は、幼い折、身体が弱く腺病質。走って、溢れる祖母乳を頂戴している私は、むくむくと太るのに、小さな叔父は、夜鳴きのピーピー坊やであった。なのに、庇をお借りしている私は、母屋までも足をのばすお元気な赤ん坊ちゃん。
 ちゃんばらゴッコでは、この叔父ときたら、いつも「御用、御用」の取り方ばっかり。情けないったらあーりゃしない。丹下左膳ゴッコでは、私はチョピやす。子役ではあるが、まぁまぁの脇役で、結構目立つ訳だ。
 家の勝手口から、そーっと入るや、味噌壷を盗み、中身の味噌をどんぶりにあけ、アミの張ってあるハイチョウと呼ばれる戸棚にしまう。洗った壷は、なるべく派手な風呂敷に包む。
 勇み立つ私は、この壷を胸にしっかりと抱え、友達の待つ公園に走る。チョビやすになったら、コケ猿の壷御用達が、何よりのお約束なのだ。たとえ、大人に叱られようが壷御用達の出来ぬ奴には、この役所は回ってこない。
東京湾の潮風が流れる、入舟町の夕焼けの空。こうして今日も、やっぱり優しいおばあちゃんに叱られた。何度叱られても、当り役から降りる気は、サラサラなく、今日もおぼろな昼の月に向かって胸をはる。小学校三年生であった。
 佃の渡しは、私のゆりかごだ。佃煮を買いに走り、佃の渡しを舟にゆられて昼寝した。舟のおじさんは顔見知り、遊びつかれた小学生の昼穫を大目に見てくれて、起きれば、ねぼけたままの小さな私の口にサラシ飴をポンと放り込んでくれた。ゆったりとした、あの東京の優しい時の流れは、今や何処へいってしまったのだろう。

 松かさねようとも 逃れようなき乳兄妹
  幕あけの町そぞろ入り舟


 (つづく)      

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連載小説「昭和に生きて」第1話第4回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第4回

 私の母は、奥向きの仕事をするよりも、商いの上手な人だった。惰もあったが、母にとっては強くてこわい姑が亡くなると、店も奥も母の独壇場となった。母が店に立つと、店の人達も商品も華やいだ。従って、父は、大きな金庫を背に、愛敬のある顔でゆったりと座るだけ。角帯にお召の前かけをきっちりとしめた昔風の商いの姿。この父の姿が私は大好きだった。店の三軒隣りに、あんぱんの木村屋さんがあり、寒い冬の日は、パン工場のパン焼き釜の近くで、よく宿題をさせてもらった。パンの香りにうっとりしながら、鉛筆を持ったままうたた寝をしたものだ。小さなメリーミルクの缶詰をこの店で私はよく買っていた。この缶にニカ所穴を空けてもらう為、父が暇になるのを店の人口で待つ。毎度のことだから、父の目と逢うなり、それと察して父は手招きをレてくれる。母に叱られぬように、静かに店に入ると、父は太いねじ回しで穴を空けてくれる。しばらくは、父の膝の上で、缶の穴に口をつけ、チューチューと甘いミルクをすい続ける。やがて父は、そんな私の横顔にザラザラをする。ザラザラとは、父の髭のことで、父はよく私の小さなホッペに、濃い自分の頬の髭をこすりつけ。 「ザラザラ」とゆつくり言って優しく笑ったものだ。
「やだやだ」と言いながらも、私はこのザラザラが大好きだった。私にとっての異性への人口は、きっとこのザラザラだったのかもしれない。

 神楽坂には、一丁目と二丁目と三丁目があり、祭りになると、芸者さんがいつもより者飾り、お神酒所の旦那衆も若やぐ。子供達は、小若ばんてんをひるがえし、走り回る。勿論私も小若ぱんてんさ、おきゃん(お転婆)な私は、ジャラジャラと山車なんぞ引いちゃいない。御輿を肩に、今にも水をかけられるのを待ちながら、アゴで男の子を叱咤激励してしまう。喧嘩は年下の子とするのは恥で、六年生を向うに、力じゃ負けるがおきまりなので、喋りで畳み掛けていく。たいていの上級生は、面倒になり走って行ってしまう。力で攻められると、消しゴム片手に、坊主頭をなで切りにする。坊主頭を消しゴムで擦ると、これがすごく痛いのである。
 父が男の子を欲しがったせいか、私は男の子のように育てられた。もっとも、当時としては、母も飛んだ女であったから、勉強さえちゃんとしていれば、たいてい大目に見てくれたものだ。むしろ、それが正義であれば、はなから負けると知った喧嘩なぞするなと言われた。こうして、私はスカートよりも、お気に入りの乗馬ズボンをはき、刈り上げのオカッパ頭をふりふり、夜店のバナナの叩き売りのおじさんに逢いに行く。
 かつて、神楽坂の縁日は、毎夜立ったものだ。古本屋のおばさんの所では、本の立ち読み。アセチレンランプの変な匂いも気にならず、菊池寛著「第二の接吻」を夢中になって読んでいたら、母の手が後から伸びるや、パシッと尻をぶたれた。まずい事に、この本屋さん、うちの店の前に毎夜出ていたんだもの。母の読む婦人雑誌なんぞは、トイレの中。和式が嫌いなのは、今もって同じ。長逗留で腰が痛むからだ。仮性近視になり、いっとき眼鏡を使ったのは、この頃(小学校三年生)だった。だって、昔のトイレのあかりは暗かったもの。子供に乳をふくませている間も、本を手放さぬ母なのに、育ち盛りの読書には、やたらうるさい人だった。

 (つづく)      

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平成23年新春の御挨拶

謹賀新年

情と時が 出逢ってスタート デイサービス
 昭和を越えて 平成に生きる


まだまだ感張ります。

                  可久鼓桃

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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