2010/09/19
連載小説「昭和に生きて」第1話第3回
連載小説「昭和に生きて」第1話「山の手・下町・たけくらべ」
第3回
私の第二のふるさとは、京橋の入舟町。母の実家である。ここも、祖父の代から、同じ商いの時計・眼鏡・貴金属商。先祖が旗本だと言われていたが、武士の商法で幾度も、商売替えをしたあげく、母の父は、父の父に弟子入りをする。やがて、その地で一人立ちし、店を持つが、子沢山の一家であった。その後、それが縁で、母は経済的な理由もあり、父の許へと嫁いで来た次第。私が年頃になった時、「どうして、お母さんを好きになったの?」とくどいように父に聞くと、父のロマンティックな返事は決まっていた。
「浅草の電機館のそばに電信柱があったのさ、その陰で、十八歳のお母さんが、肩あげも取れてない着物に、三尺(へこ帯のこと)をしめて立っていた。お互いに親に言われた待ち合わせでね。ポッチャリとした可愛い姿に、お父さんが惚れたのさ」
私はこの話をする父の照れた姿見たさと、この返事が大妊きで、幾度となく聞いたものだ。この返事の通り、荒波にもまれる人生の中、先立っていった母に惚れ抜いたまま、父は生涯を終えた。
すぐ下の妹は、元来身体が弱く。私は小学枚の六年生まで、入舟町の母の実家にあずけられていた。当時、「次郎物語」という映面がヒットを飛ばしていたが、この映画を見て以来、この物語に自分の毎日を重ねては、不幸のヒロインのように思いつめたりした。 この頃は、チンチン電車にゆられ、入舟町の店から、牛込見附(神楽坂下)まで、小学校へ通う。父も叔父も同窓生である津久戸小学校であった。築地東劇の前にあった橋をチンチン電車が渡ってゆくと、白いカモメが朝靄を分けて飛び立つ。このカモメ。数寄屋橋の川面までも、潮風に運ばれ、飛び交っていたっけ。
入り潮の香もなくネオンの波ばかり
迷いカモメかここは数寄屋橋
(つづく)

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