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連載小説「昭和に生きて」第1話第3回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第3回

 私の第二のふるさとは、京橋の入舟町。母の実家である。ここも、祖父の代から、同じ商いの時計・眼鏡・貴金属商。先祖が旗本だと言われていたが、武士の商法で幾度も、商売替えをしたあげく、母の父は、父の父に弟子入りをする。やがて、その地で一人立ちし、店を持つが、子沢山の一家であった。その後、それが縁で、母は経済的な理由もあり、父の許へと嫁いで来た次第。私が年頃になった時、「どうして、お母さんを好きになったの?」とくどいように父に聞くと、父のロマンティックな返事は決まっていた。

 「浅草の電機館のそばに電信柱があったのさ、その陰で、十八歳のお母さんが、肩あげも取れてない着物に、三尺(へこ帯のこと)をしめて立っていた。お互いに親に言われた待ち合わせでね。ポッチャリとした可愛い姿に、お父さんが惚れたのさ」

 私はこの話をする父の照れた姿見たさと、この返事が大妊きで、幾度となく聞いたものだ。この返事の通り、荒波にもまれる人生の中、先立っていった母に惚れ抜いたまま、父は生涯を終えた。
 すぐ下の妹は、元来身体が弱く。私は小学枚の六年生まで、入舟町の母の実家にあずけられていた。当時、「次郎物語」という映面がヒットを飛ばしていたが、この映画を見て以来、この物語に自分の毎日を重ねては、不幸のヒロインのように思いつめたりした。  この頃は、チンチン電車にゆられ、入舟町の店から、牛込見附(神楽坂下)まで、小学校へ通う。父も叔父も同窓生である津久戸小学校であった。築地東劇の前にあった橋をチンチン電車が渡ってゆくと、白いカモメが朝靄を分けて飛び立つ。このカモメ。数寄屋橋の川面までも、潮風に運ばれ、飛び交っていたっけ。

   入り潮の香もなくネオンの波ばかり
   迷いカモメかここは数寄屋橋


 (つづく)      

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連載小説「昭和に生きて」第1話第2回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第2回

 私がふるさとと呼べる場所は、さしずめ神楽坂から始まる。神楽坂を登りきった所に「助六」という履物屋があった(現在もある)。そのちょうど向い側に、祖父の代からの、時計・眼鏡・貴金属を商う店。
  (祖父は明治初年より横浜の外国人の許で、時計・眼鏡の修業を終え、神田で時計工場を持った人だと聞かされる。ゆえに、横浜と聞いただけで、私の血は騒いでしまう。)

 坂の上のこの店で、あの暑い敗戦の夏までを、私は父と共に店を守った。当時、眼鏡を必要とした出征兵士は、最低、三組の眼鏡を大切にそろえて戦場に赴いたものだった。従って、少々の警戒警報では、防空壕に引き込んだレンズ砥石のモーターの音は止まらない。十三歳の夏から、父に教えられたレンズ加工は、どうやら私の身について、たまには、忙しさに理由をつけ、学校を休むと、父と共にじめじめした防空壕の中で、レンズ砥石をまわした。商いの好きな私は、このモーターの熱気が親元を離れた折りにも忘れられず、嫁に行こうが、折々かえっては、レンズ砥石の前に立った。それが、その先、二十六歳の夏、始めてメガネ屋開店となろうとは。所詮、私の一生は、商いと切れようがなく、商いは、私の身体の源流でもあった。

 私の幼時は、靖国神杜のそばにある、富士見幼稚園に通った。今、言われる年小組で、おそ生まれなので、四年も通っていた。母がはかせたウールのズボンの裾をひるがえし、赤い靴を音高く鳴らし、四歳の小さな足は、富士見幼稚園の門にたどりつく。
 飯田橋駅前では、当時ルンペンと呼ばれる髭だらけのおじさんに呼び止められ、バスケットの中に納まるお弁当を何度も食べられてしまった。怖いおじさんは、手持ちの器に、お弁当の中身を素早くあけ、ニヤリと笑いながら、もと通りバスケットを私につかませる。四歳は、唯々驚いて、おじさんおじさんと大きな声を上げる。おじさんは、日に焼けた茶色の手に、破れた手拭をつかみ、大きく、大きくふり立て、シッ、シッと私を追い払うや、土手公園の松の木に向って走り続けた。
 空っぽの弁当箱を持ったままの通園に、先生が家にこられた。いぶかる大人達に囲まれ、私は母の目をみつめ、切れ切れの単語を並べていたのだろう。あくる日より、父方の叔父が通園する私をそっとつけはじめる。或る日、あの茶色の恐い手の上に、背の高い大きな叔父の手が重ねられる。この日より、ひものついたバスケットは、私の肩からのどかにゆれて、幼稚園の門をくぐるようになった。
 以来、叔父は午前中の店の仕事をせずに、唄いながら、私と共に通園するようになった。叔父の唄う流行歌は、先生にも、お母さんにも内緒。毎月ゆく宝塚歌劇も、田園交響楽を聞いたのも、映画『駅馬車』を牛込館で見せてくれたのも、新宿中村屋のカリーライスの味を教えてくれたのも、みんなみんなこの叔父であった。
 叔父と一緒の通園で問題になったのは、幼稚園のブランコにゆられ、私を待ちながら、うっとりと唄う叔父の「愛染かつら」のメロディーであった。熊手を小脇に抱えた小使いのおじさんに叱られても、シャランとした面長の叔父の顔は、「あら、なぜかしら」であった。この叔父の長い顔は、恐いくらい嵐寛十郎(初代、鞍馬天狗であります)に似ていて、新宿日活に行った時など、映画館の支配人に呼び止められ、「先生、先生」なんぞと祭り上げられ、ロハ(ただ)で映画を見てしまう。しかし、映画館を出るのに、困り果て、叔父は私をだき抱えるや、しゃれたハンチングを目深くかぶり、モギリ(切符切り)のお姉さんの横をかけ抜けた。

  坂のあるふるさと訪で神楽祭り
     織りまぜて晒むか江戸の川風


(つづく)      

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連載小説「昭和に生きて」第1話第1回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第1回

 私が抱え続ける血は四代をさかのぼり、お江戸で生をさらして来た。義理人惰と、しがらみを粋に仕上げ、旅立った御先祖さん。今頃、卒塔婆の陰から、ペロッと赤い舌なぞのぞかせて、「なにが平成の御時世だい、ちっとも平らじゃありゃすめえが」なんぞと、舌打ちしていなさろう。 「涙も笑いもすべて斜に、かるくいなしてこそお江戸の人気さ、それが正義であるならぱ、負ける喧嘩なんぞするんじゃねえ、うろたえるなよ」と一喝しそうな御先祖さんは、今も、お江戸の地べたにお眠りでござる。

 そんな家の風を背負う商家が、山の手と下町にあって、これが、花柳界を背にした場であって見れば、私の育ちのお里は知れようと言うものだ。山の手風の、たけくらべ、下町風のたけくらべ、昭和初期のたけくらべは、変動の歴史にゆさぶられ、悲喜こもごもの様相をきざみ流れつづけた。もっとも、物資欠乏の時代をまたぐ、丈くらべは、竹にもなれず、笹くらべ程度 でもあったか。されど、身体にひそむ憧れは、吹きすぎる戦の嵐にあおられようとも、笹なりにザワザワと騒ぐ音を忍んでいた。

  坂のあるふるさと訪で神楽祭り
     メンコ・ベーゴマ・切れ切れの夢


(つづく)      

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短歌集「老ひだまりの窓」その2

短歌集「老ひだまりの窓」その2


しとど降る 八月の雨 傷痛めど
 老ひつも夢追う 足跡の詩


しとどふる はちがつのあめ きずいためど
 おいつもゆめおう あしあとのうた

 (デイサービスの朝)


這えば立て たてばあゆめの 命いとし
 この身傘寿なりせば いざ、ととのえつ生きなむ


はえばたて たてばあゆめの いのちいとし
 このみさんじゅなりせば いざ、ととのえついきなん

 (デイサービス、午後のゲーム)


点滴の 落つるを見つめ ひらめきぬ
 生命と時を ひしと抱きしめたり


てんてきの おつるをみつめ ひらめきぬ
 いのちとときを ひしといだきしめたり

 (病院の午後)


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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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