2008/01/27
連載小説「神楽坂」第1回
連載小説「神楽坂」第1回
鈴蘭燈のあかりと、向かいの呉服屋の看板の明かりが、このあたりでは珍しい三階建てのしゃれたバルコニィを越え、部屋を程良く照らす。鬱陶しい長雨に天井の染みは濃く浮き上がり、砂づりの壁はじっとりと仏壇の線香の匂いを吸いとる。
時計・眼鏡・貴金属を商う店。その真上の八畳間。祖母を挟んで、テルは一つ違いのゲンと眠る。
叔父・姪で、乳兄弟のこの二人。向こう気の強いテルに、幼くして父を亡くしたゲン。ちゃんばらごっこで、下っ引きの役しかもらえないゲンと、丹下左膳では、いつもチョビ安のテル。「御用!御用!」の掛け声の間を、台所からそっと持ち出した味噌壺を抱えテルは、ひょいひょいと逃げ回る。これは「コケ猿の壺」のつもり。ゲンは、十手に見立てた木切れを手に、用心深い目つきで、無鉄砲に動き回るテルを遠くから眺めている。
築地に近い入舟町。風の吹きようで潮風も運ばれ、煮しめ屋と、焼芋屋の匂いが香ばしく混ざって、夕焼けに染まる町並みを通り抜ける。角の桶屋の小母さんが、店の前へ七輪を置いて、しぶうちわ片手に魚を焼きだすと「また、あした、また、あした」と声を掛け合い、子供等は散っていく。汚れた手足で、ゲンとテルが店の裏口に立てば、のんびりとした声と裏腹な祖母の声に乗った雑巾が、はっしと飛んでくる。やがて、ゲンは煙のようにすぅーと家に入る。テルは、「腹減った、腹減った」と唄い散らし、洗い場にかけ入り、シャボンの泡でのんびり遊んでいるゲンの後から「早く、早く」とせき立てる。
「テルさんは、お母さんのお腹の中に、忘れ物をして来たんだね」と、通い職人の福田さん。柱時計の箱掃除の手を止め、夕食の下見にあらわれる。
裏隣の一人暮らしお婆さんは、夕方のお題目。テルには、「チャーリキナ、チャーリキナ」としか聞き取れない。 窓越しにのぞけば、火の用心のおじさんが叩く拍子木より短い。つやの良い木片を両手に、酔ったように身体を揺すっている。その隣のよっちゃんの家は、子沢山。ひつめ髪におくれ毛をなびかせ、ついぞたすきを外したことのない小母さんが、いたずらの絶えない三男坊を追い回す。背中にくくられた赤ん坊は火のように泣き、小母さんの声が裏通りにとどろく。小父さんは、いつもニコニコとあいそが良く。天気の良い日だけ、銀座の服部時計店(和光)の近くで、表札書きの露天商。時々光る鋭い目付きを隠し、腰が低いと御近所の評判。駄菓子屋の前で、よっちゃんと、ベー独楽をしていると、「仲良く遊んでな」とテルの頭を撫で、二人にニッキ飴を買ってくれる。
テルの家は牛込(新宿区)の神楽坂を登り切った所に先代からある時計・眼鏡・貴金属商。
テルのすぐ下の妹は、身体が弱くて泣き虫。テルの母は、姑と折り合いが悪く、舅は無類のお人好しだが、酒癖が悪く。テルの父は気が弱く。店は忙しく。その所為か、テルは母の実家の入舟町の店に、いつもお預け。小学校は、チンチン電車で、新富町の停留所から、牛込見附(神楽坂下)まで通う。
入舟町二丁目。これがテルの出生地。難産のあげく、脚気になった母はテルに乳がやれぬ。前の年、ゲンを生んだばかりの祖母の乳を飲んで育つ。そこで、一つ違いの叔父と姪は、乳兄弟にもなってしまった。ゲンは母キミを「おっかさん」と呼び、テルは「おばあちゃん」と呼ぶ。
三人揃って銀座へ買物に出掛けると、ゲンは自分と同じ年頃のテルが、人前で母を「おばあちゃん」と呼ぶのが嫌さに、お留守番が好き。祖母を一人じめしたテルは、デパートで「おっかさん」と祖母を呼んでみる。「嫌だよ、この子は」。ちょっと美人で気取り屋の祖母は、満更でもない苦笑い。
すると、帰りは「銀ぶらに天國、天國の天ぷら」とこうなる。当時、マッチに印刷されていた「銀座天國」のキャッチフレーズである。
(つづく) 第2回へ

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