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連載小説「神楽坂」第21回

連載小説「神楽坂」       第20回

第21回

 一週間が様々な出来事を刻んで、秘密を呑み込み過ぎて行った。女にされ、それを追って身体が大人になった。ともかく、この取り違いから歩み出さねばならぬ心細さ。信頼深い筈の血の呆気なさ。蹴落とされた穴の底で、丸い青空に両手を上げて縋る思い。怒りを持ってゲンを極めつければ、生まれてこのかたの月日が惜しまれ、大切な血のつながりは遠ざかる。忘れるには己れが不憫で、共に生きた命が共に大人になったと思おうとした。唯、余りの段取りの無さは恋でもなく、愛と言うには近すぎ、欲望として済ますには惨めすぎた。ゲンは、まるで警戒のなかったハルに、距離を教えあきらめの烙印を押した。
 ハルは、さりげなく入舟町から遠のいた。今更振り向く恐ろしさより、振り返って出逢うその目が、もし冷えて恍けでもしていたなら、一度限りの流れた血が憎しみになろうから、やり場のない自分を、最早突っ放して歩いてゆくしかない。

 終戦直後、日本の世相は他人の屍を踏み越えても我が身の富を守り、強い者が栄光を貪った。学生は修身の教科書から無責任に解き放たれ、舶来好みの日本人は、けろりと過去を葬り、「祖国」という言葉すら忘れ、今日食べられる事が生き抜く明日に繋がっていた。闇物資は耐え忍び続けた人心をかき乱した。精神は二の次で、物質が心を犯した。

 夕暮れ以降、子女の一人歩きは危険だった。ハルの家の近くに、立川から所沢を抜け、入間に向かう、各米軍基地を結ぶ幹線道路がある。米軍の大型軍用トラックが、ギラッとした大きなライトをつけて、ゴウゴウと走りまくる。トラックから長い毛むくじゃらの手がやにわに伸び、小さな日本の女を抱え、そのまま走り去る。ハルの友人に十五歳になる大柄な妹がいて、学校帰り同じ目に会ったが、負けた国の警察は施しようもなく、臭い物には蓋をして、弱い国民は泣き寝入り、新聞に載せようのない事件などは、どこの町にも転がっていた。ハルはギラッとしたこの光に出逢うと、物陰に隠れる。戦争中は防空壕にもぐり、戦後もこれだから、どのみち命がけの通学だ。

 慌ただしい歴史の中での学生生活も残り少ない。戦争中の教育は、まだ頭の隅でくすぶる。警報のサイレンでの授業の中断こそないが、同じ顔の先生が、同じ教壇に立ち、戦後は全く違った理念で私達に語りかける。何故今に至り、今が何故正しいのか、どこかに省略が潜んでいて、しっかりと伝えてくださらない。もしも、これが突然の自由や民主主義ならば、またもやある日、大東亜共栄圏に舞い戻り、学生がペンを捨て銃を持たされ、打ちてし止まむなぞと叫ばねばならぬのか。私達は、怖ず怖ずと変化してゆく世界地図を広げる。ハルは、あの総理官邸の大黒様と恵比寿様の陰から、幼い笑顔をあらわに手招きした、カボチャを思い出す。たまたま総理大臣であったカボチャは、今頃どこで、どんな思いで勉強しているのだろう。我々と同じように自由と民主主義を手に入れただろうか。

 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第20回

連載小説「神楽坂」       第19回

第20回

 戦災を免れた入舟町の一角はさして変わらない。変わったのは、街中をG・Iが散歩して、聖路加病院のステンド・グラスが戦時中よりも輝きを増し、軒並みの家々が目立つペンキで化粧し、疎開先から戻らぬ人で代替わりもあるが、人気は昔通り。店の上の八畳間は、相変わらず仏壇の線香の匂いが染みつき、白髪のふえた祖母のキミを挟んで、一つ違いのゲンとハルが眠る。

 近頃のハルは身体が妙に懈く。詰まらぬ事で苛立ち、乳房が疼く。訳もなく涙が溢れる日は母の許へ帰り、近くの小高い丘の裾にある尼さんの庵にゆく。散歩の途中、托鉢する尼さんの姿に思わず手を合わせたハルに、尋ねる度に粥を炊き、お茶をたて、迷える小羊に鬱陶しくならぬ程、法を説く。経本を開いて「大般若」を唱えれば、生きているだけでどこか汚れてしまうと思い込むこの頃の恐れから、すんなりと這いだし、また入舟町からから学校に通っている。母は食糧の確保と子育てにかまけ、父は商いに忙しく、祖母の側での時の自由さにハルは寄り掛かっている。ゲンは大学受験を控え図書館通い、遊びも勉強もハルにはもう手が届かず、ゲンが何を考えているのやら皆目解らない。朝から細い雨が降り続く花冷えのこの頃、校庭は櫻の花片を頻りに吸い取る。友達はそれぞれ軽い恋をくり返し、ハルはたのまれてラブ・レターの代書をする。手数のかかる恋物語には、恋の相手にそれとなく引き逢わされ、後日感想を迫られる。恋に恋する幼さは千切れ雲に似て淡い。やたら神経のみ先走るハルだが、発育不全なのか身体は友達からおいてけぼり。

 めっきり早く眠るようになった祖母の隣で、ハルは眠たいくせに本を読み流している。バレー・ボール大会が近づいて、背の低いハルは後衛でサーブの連続練習。太腿の付け根から先はふとんの中で溶けてしまったように懈い。隣の部屋では遅くまで勉強しているゲン。ぐっすりと眠りこけたハルは、真っ白で太い蛇の夢をひたすら追う。祖母の実家の三番蔵には白い大蛇が住み着き、家に大事ある年は蔵の屋根に這いだし吉凶を告げると、これだけは真顔して母が言う。
 この言い伝えに色を付け想像を展開させ、ハルは幻の夢を折折に見る。土蔵の蔵の壁には、織りなす葉が登り立ち禿げた荒壁の木舞いの間に名もない草がとり縋り、一歩踏み込めば薄暗い天井にとどけとばかり籾が積まれ、小ネズミの光る眼が隅に潜む。この三番蔵の前を通りかかるハルは、そっと蔵をひと回りするが、妖気が伝わったか、もつれる足に驚いて、一目散に逃げ出す。今、ハルは真っ白で太い蛇の夢に酔いしれる。三番蔵の小高い窓から白い蛇はのろのろと這い上がり、痩せた大人の胴ほどもある真っ白な肌をぬめぬめと妖しく輝かせ長々と屋根に寝そべる。深紅の伸びる舌をペロッと出して屋根にかかる欅の枝に巣くう小虫を器用に食う。あたりの音は静止し、色の無い背景の中で深紅と金色に変化した白い肌が鮮やかに踊り狂う。蛇の息遣いがハルの耳許にせわしい。ハルは今、真っ白で太い蛇の夢に酔い狂う。いつしかハルは、恐ろしい筈の蛇に猛く寄り添われ、輝く身体はハルに優しく、深紅の細長い舌はハルの首筋を伝う。三番蔵の屋根は程良い陽射しを受け、広く暖かく柔らかい。
 気怠さの中で縮かんでいる身体を伸ばし寝返ろうとすれば、やおら熱い塊が全身にむしゃぶりつき、腰と胸元の自由を奪った。これは妙だ。これは夢なんかじゃない。これは蛇ではない。これは何だ。身体が動かない。息がつまり喉が渇く。祖母の鼾が隣で折折途切れ、軒を打つ雨音が激しくなった。家中のあかりは消え、突っ張ったハルの身体に蛇ならぬ人間がひたと被さっている。もがいてのび上がれば、歯の根が合わぬ、震える口びるを燃える口がふさいだ。やみくもに逆らう腰に痛みが頭の芯を突き上げ、生命が走った。鈍痛と涙が残った。震える身体は言葉なくするすると立ち去り、ハルの身体から零れ出たものに、優しさも、約束も、夢もなかった。惚けた頭で残されたぬめりを枕カバーで拭った。青草の匂いがジトジトとしたふとんに籠り、手洗いに行きたいが身体を動かすと、声を上げて泣き出してしまいそうで、明け方まで切なく堪えた。

 空が白み、強張って血の染みた枕カバーを音を立てぬよう手拭いでくるみカバンの底に入れた。気が付くとハルは、雨上がりの街なかを玩具のように走る一番電車に乗っていた。店は戦災に会い、もうそこには座る場所もない筈の牛込見附で電車を降り、神楽坂は見上げただけで、朝の土手公園にたどり着く。ハルの松の木達が昔通り手を広げて待っていた。芥箱の中へ血染めの枕カバーを細かく裂いて捨て、しばらく行ってまた引き返し、捨てた布の血色の個所を暫く指先で突いていた。新しい涙をふりきり松の木に登る。腰にしっかりと力が入らず、身体の中に異物が残されたままのようで変にぎごちない。松の木の上で止まらぬ涙を頬に受け、神楽坂を見やり昔を思う。人通りが始まり学生の歩く姿が増してゆく。全身が昨日の自分と変わったと見とがめられる恐ろしさに、ハルは今日学校へ行くのをやめた。冷えた血が駆け回り眩暈がした。すれ違う人の目が見透かし追い立てる幻覚。中央線の車窓に写る自分の顔の白々しさ。

 誰にも言えぬ心のうちは、やっぱり、「オカアサーン」。昼近くに戻ったハルは、頭痛で早退したと母に言っておく。青草の匂いが纏い付くまま、離れにこもりぐったりと眠る。夕方、何も食べないハルに母がお粥をつくった。起き上がったハルは寒気がして乳房が張った。ふらふらと手洗いに立ち、あわてて手洗いから転び出た。「わぁー、血が止まらない」。震える腰から下の感覚が突然敏感に発達して、女のスタートを切った。手洗いの前でいつもより優しい顔の母が、大人への仕度を手にして待っていた。それはこれから女として生きる為、あらかじめきめられた通行手形に見えた。
 明くる朝、母は赤飯を炊いた。ハルは学校を三日間休み、四日目母のサイン入りの生徒手帳をもって登校。始めて体操の時間見学。友達が目配せをした。ハルはうわ目使いでコックリをした。

 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第19回

連載小説「神楽坂」       第18回

第19回

 ハルは、継ぎ接ぎだらけの授業が詰まらなかった。もんぺをスカートに穿き変えたものの、俄仕立ての民主主義に質問がたくさんあった。何よりも不惜身命は、可借身命と相成った。生命の尊厳と責任に裏打ちされた自由を教えられる。天皇陛下は、神格否定宣言をなされ、文部省は教育勅語の奉読を廃止せよと通達した。神国日本に神風の吹くその日を、日の丸鉢巻をかたくしめて、信じさせられ育った同期の小櫻達は、今や人間は葦原に繁っていた一本の葦に過ぎなかったのかと悟った。
 特攻隊生き残りの母方の伯父は、狂声を張り上げ、抜き放った日本刀で、庭の立ち木をやたら斬って廻り、足許へ生唾を吐いていた。

 学校の帰り、ハルは映画を見たり、神田の本屋街迄出かけて本に立ち読みの「梯子」をやっていた。高くて買えぬ本は、申し訳ないが写させていただく。ハルは、パスカル「パンセ」が欲しいのだが買えずに毎日本屋へ通った。雨が降っていた。うなぎの寝床のような店に隠れ場はなかったが、奥に座る店の人からは離れていたのが幸いだった。今日まで三分の一ぐらい写せている。ふと肩を叩かれる。老眼鏡を鼻先までずらした見馴れた本屋の小父さん、うろたえるハルに黙ったまま椅子をすすめた。
 ハルは小柄な身体が溶けてしまえば良いと思いつつも、深く深く最敬礼をした。小父さんの細い目は笑いながら又も無言で椅子をすすめる。ハルは消え入る声をやっと出して、「ゴメンナサイ」と言った。その日からのハルは映画も見ず、あんみつも今川焼も食べず、一日も早く親切な本屋の小父さんの許へかけつけて、写しかけの本を買いたいと、せっせと小遣いを溜め続けた。ハルの手許にパスカルがやって来たのはそれから三ヶ月後、街に「リンゴの唄」が流れ、以来パスカル「リンゴの唄」はハルの記憶の中で一緒に座っている。


 注 不惜身命(ふしゃくしんみょう) 可借身命(あたらしんみょう)
 
 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第18回

連載小説「神楽坂」       第17回

第18回

 ゲンと祖母キミは入舟町へ戻った。父は、入舟町の店の近くへ、ともあれ小さな店を構えた。ゲンの家には借家人がいたが、二階と三階は貸していなかったので、寝る場所には困らなかった。ハルは相変わらず、入舟町の祖母の許から学校に通って、週末は東村山に帰る。ゲンは、大人っぽく男でございとばかりハルを見おろす。悔しがって、後を追い廻すハルに「おまえは女なんだから」と、もうどこへも一緒に連れ歩いてくれない。
 ハルの胸はちょっぴりふくらんで、若草だって芽吹いているのだが、まだ体操の時間にオヤスミをしていない。友人のほとんどは、学生手帳を先生に渡し家からのサインの横にペタンとハンコを貰って体操をやすむ。
 父の店には、サングラスや時計を買いにGIがくる。お金を持たない場合は、タバコ、石けん、缶詰、お菓子を置いてゆく。それが値段に引き合うのやら解らなくても、食べるのが先決の時代。子供の多い我が家では、これらの品物をかついで週一回父は母の許へ帰る。もどれば親鳥の餌を待ちかねた子供等は、珍しい品物に群がる。石けんは汚れだけ落とすのではなく、香水の役目もするのをハルははじめて知った。

 ここ東村山にも、都会の人達が主食や野菜を求めて農家の庭先に、手持ちの高級な着物などをひろげ商談に入る。小学生らしい男の子が、自分の背丈ほどの荷を背負い、畠中の道を母親にせき立てられてよろけながら歩く姿。村の人達はこうして訪れる人々を買い出し部隊と呼び、週末、駅のホームは人と荷で大混雑をする。
 父は、いつものリュックの別に一斗缶を下げて戻った。さも得意気に一斗缶を開け、「舐めてごらん」と母に言う。のぞき込む母がひと舐めして、「あらっ、お砂糖ですね」とニンマリ笑う。その声を聞きつけ子供等はいっせいに手を伸ばす。畠でとれた小豆で、さっそくおしるこを作った。
 次のリュックが運ばれる頃、その一斗缶の中から薄茶色が顔を覗かせた。父は済まなそうに禿げた頭をつるんと拭いた。母は、「又ですね」と言った。薄茶色はフスマであった。小麦を引いて粉にする時出来る皮の屑なのだ。一斗缶の十五センチ程までは、確かに真っ白なお砂糖に違いなかったのだが。

 職業安定所から金属製のトランクを一つさげて、陰気な男がやって来た。無口で猫背で終日仕事場で大きな目玉をギョロつかせ時計の修理に余念がない。時計職人二十五歳。週一回母の許に帰る父は、週二回戻れるようになった。
 その日、朝がた出かけた父が、小柄な身体をまたひとまわり縮めて帰って来た。濃いひげの剃り跡がなお濃い真っ青である。辿り着いた玄関で、へたへたと膝をついた。その姿に、出迎えた母は、「まさか、あんた」と、さすがの母もその場に座ってしまう。やられたのである。二十五歳の時計職人は、ものの見事にめぼしい店の商品を手持ちの金属製のトランクに思い切り詰め込み立ち去った。
 
 数日して警察から連絡あって、父は職人の生家へ警察の人と出かけた。埼玉の小さな駅の町外れ、傾いた藁葺き屋根の下から年老いた病身のふた親が現れ、「三年前、息子は勘当しました」と言うだけ。見廻せば無残に貧しく。強い言葉も交わせぬまま父は戻ってきた。
 さし当たり神楽坂以来の信用で商品は整った。二代目の旦那商売を続けていた父が始めて潜る試練であった。

 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第17回

連載小説「神楽坂」       第16回

第17回

 工場から学校へ在校生は戻った。赤煉瓦の校舎は外側だけ残り、内装は焼けて火事場の匂いがなかなか抜けない。
 つい先頃まで、藤田東湖の「天地正大の気、粋然として神州に鍾る(あつまる)」に始まる詩を朝礼で毎朝吟じていた私達は、戦が終わるや、ゲティスバーグでのリンカーンの演説文「人民の人民による、人民の為の政治を」と、蛸壺防空壕が手付かずに散在する校庭で、素直に唱和した。勿論涙ぐましい仮名ふりの英文であった。
 敗戦後の体操の時間は、かつて掘らされた蛸壺防空壕の埋め立てで始まった。先生のかけ声は「第三分隊の第一班右へ」なぞとは、もう決して言われないが、命令なぞされなくても、自分の汗で掘ったものの位置はしっかりと覚えている。御使用なしの深さ二メートル、直径一メートルの蛸壺に駆け寄る。
 「あれっ」顔を見合わせれば、「同じ、あの時とおんなじ」とはしゃいでいる。同期の桜は恙なく勢揃いして蛸壺防空壕は埋まり、校庭は平らに広くなった。
 焼け残った教室の中では、新渡戸稲造、内村鑑三の足跡が語られ、駆け足の民主主義が学校の中を駆け回る。
 禁じられていた英語は、敗戦を境にいきなりハル達を取り囲んだ。街には英文字が氾濫し、新宿の街の中をパラシュートのようなスカートを穿いた女の人達がGIに肩を抱かれ、タバコを咥えて通り過ぎる。
 「欲しがりません、勝つまでは」なんて、負けちゃったお国では、もはやおとぎ話。闇市では欲しい物が山積みされ、新宿の街はみるみる毒々しい原色に塗れたてられ、日本の色が消えてゆく。
 本屋さんに本があふれ、翻訳本を隠れて読んだ頃も忘れ、ぞくぞくと放映される外国映画を映画館の梯子で見て廻った。
 ズルチン入りのあんみつであれ、泣ける美味しさ、スルメの足をくわえ、映画館の休憩時間に流れるハワイアンバンドのスチール・ギターにうっとりした。しかし、お国の為に省略された英文法では、今更急に高学年用の〈リーダー〉抱えさせられても戸惑い疲れて、若いエネルギーは街の角かどを流離う。
 教育界の慌ただしい変貌の狭間であえぐ落ちこぼれは、無残であり無念だった。
     
 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第16回

連載小説「神楽坂」       第15回

第16回

 あの八月の朝、明電舎の三階の仕事場で、汗でべったりと濡れた日の丸鉢巻きをきりっと結び直した丁度その時、スピーカーから全員集合の指令。すり減った運動靴を引きずり一階の中庭へ、ねずみ色の階段を怪訝な面持ちでぞろぞろと降りてゆく。
  「天皇陛下の玉音放送が御座います。」と工場長の重々しい声。
 一瞬ざわめいた群衆も緊張して静まり、不透明な空気の中、国民がはじめての陛下の沈痛なお声が細く清冽に流れてゆく。我々は一人、また一人その場に蹲る。腹の底から唸り声をあげ、高まる憂憤の情は堰を切って、日の丸鉢巻きを地べたへ叩きつけ、握る拳を震わせる男子学生。
 ハルは、足を踏み締め腕をさすり、今の命を確かめたが、空白になってゆく頭の中は、瞬時に区切られて頼りない。工場の機械の音は消えて、午後は解散。大崎のホームに立ち、私達はまず宮城前広場へと目で頷き合う。その時、ホームの柱の陰で何が可笑しかったのか、甲高い声張り上げ、ゲラゲラと級友が笑った。その声に素早く駆け寄り、笑う女子の顔に男子生徒の平手打ちがとんだ。
 誰もがやり場なく途方にくれ、動員学徒等は泣くエネルギーもなく、惚けた目を寄せ合ったこの日、激しい目の前の光景は過去への決別であったのか。
 やおら、その空気を破り、平手打ちの男子生徒は、声を限りに叫んだ。
  「何が可笑しいのか、今日は、今日は笑っちゃいけないのだ。せめて今日だけは」と、ホームの柱に血の滲む程身体を叩きつけ慟哭した。打たれた級友は、防空頭巾の紐を引きちぎり、全身を震わせて泣いた。ホームの動員学徒は耐えかねて一斉にに号泣した。それは、もうどこえなりと、と急に解き放され、行き場に迷う青春の咆哮だった。

 昨日まで燃えて組み合って来た肩を、今日は頼りなく寄せ合って、宮城前広場に集まり正座する。玉砂利を握りしめ二重橋に向かい、こうべをたれれば、涙があふれて止まらない。誰も喋らず、あちこちに忍び泣く声がうずまいている。
 「将校さんが切腹した」と遠い所で誰かの叫ぶ声。
 ひもじいお腹をかかえながらも、一人として立ち上がらぬ、ひたすら従い夢中で生きた月日が、ここに座ってさえいれば無駄にならぬ気がして、返事の返る筈もない雲居の果てをひたすら見つめるだけであった。  
 この日を境に、父は終戦ボケとなり、母は甦って逞しくなっていく。次々と偉かった人が自決し、小さな子供等の間には「お山の杉の子」の歌が流行っていた。
     
 (つづく)

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連載小説「神楽坂」第15回

連載小説「神楽坂」       第14回

第15回

 今日はまだ警報が鳴っていない。警報に出会うと電車が止まり、酷い日は線路の上を小犬の様に歩く。肩からかけた水筒と、手縫いの布カバンの中には、米と梅干しと味噌。父が無理に持たせる防毒マスク。赤チン、メンタム、三角巾。唐草の大風呂敷に、手放せぬ愛読書一冊。背中に廻した防空頭巾。これも父が無理に持たせる鉄兜。
 「鉄兜は顔が洗えて飯が炊け、水を汲めば火が消せる」と父はしつこく言う。
 身体を取り巻く七つ道具は、明日をも知れぬ青春の肩に食い込み、飛行機雲が真綿を引きのばしたように浮かぶ日本の空を仰ぎ、神風は本当に吹いて呉れるのだろうか、なぞと。

 中央線は意外にスピードを出して走るから、国分寺廻りで家に帰る。遂に三鷹の少し手前で今日も無慈悲な警報が鳴った。三鷹の駅で停車。乗客は改札口から駅前の防空壕へ。馴れた足どりで素早く待避。はるかの空から翼を連ねた大編隊がごうごうと音高くやってくる。壕の入り口にいたハルは、広場の中央に叫び声をあげる白い塊を見つけた。人間だ。割烹着を着たお婆さんだ。「白は殺られる!」。咄嗟にハルは七つ道具をかなぐり捨て、カバンの底から唐草の大風呂敷を引きずり出し、急いで被る。教練の時間に習った匍匐前進で震える白い塊へと近づき、両手に掴む大風呂敷を我が身諸共がばと覆いかぶせた。
 「動けますか」聞いてみるが目をむいて取り縋るだけ。
 「少し苦しいけれど、我慢してください」
ハルはお婆さんの身体の下に潜り、風呂敷を飛ばぬようにしっかり掴み、お婆さんを背に乗せたまま、じりじりと這いつづけた。やっと防空壕に辿り着いた。すると、壕の中で拍手が渦巻いた。見る間に広場も防空壕の周辺も、低空で飛ぶ敵機のあげる土煙りに包まれた。壕の奥で「中島飛行機がやられるな」と誰かの声。
 お婆さんは鼻水を啜りハルに手を合わせた。ハルは照れて大きな目を擦ると、今頃になって身体がぶるっと震えた。手持ちの梅干しを一つ囓り、水筒の水を喉を鳴らしてごくんと飲んだ。警報解除に、今日も助かったかと、動き出す電車に乗る。気が付くともんぺにつけた大切なピンクのリボンが無くなっていた。
    
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連載小説「神楽坂」第14回

連載小説「神楽坂」       第13回

第14回


 弟の下に妹が生まれ、ハルは五人兄弟の総領になっていた。空襲は益々激しくなり、夜空から照明弾がゆらゆらと落ちてくる。初めて空から落ちてくるあかりを、爆弾と勘違いして、隣の桑畑の中をハルは三女ヒサの手を預けられ、家族全員で右往左往した。毎度、我が家が標的であるかのように、遙か彼方で急降下した敵機は、我が家の真上で急上昇する。双眼鏡を構えてその敵機に視点をあてれば、鼻の尖った外人の顔がハルの目にはっきりと写った。「見えたぞ、見えたぞ」と大声張り上げるハルに、「爆弾を落とされたら大変でしょ」と母はきつく叱り、双眼鏡は取り上げられてしまった。

 出がけに水盃でも済ませた目付きを母と交わし、ハルは大崎の明電舎へ通う。疎開もせず下町から通う友が或る日死んだ。総理大臣をたまたま父に持った級友は、いつからか姿を消し、もはや誰も彼女の行方すら尋ねるゆとりを無くしていた。毎日が戦いのニュースと警報のサイレンに追い立てられ、戸惑いながら過ぎてゆく。母の鏡台の奥に大切にしまってあるリボンを取り出し、もんぺの腰の左隅に小さく結び付けた。誰ともなく始めたこのおしゃれは、日の丸鉢巻の下にすら隠しきれぬ青春の証だった。

 新宿で共に乗り換える洋子ちゃんと、ハルは早めに工場を出た。新宿の中央階段の下で待つという、洋子ちゃんの恋人に引き合わされる。早晩、出陣学徒として立ち去る大学生は、軍服の似合いそうな凛々しさ、丈高い身体に詰め襟の学生服、艶の出た破帽に手をかけ、かるく挨拶を交わすと、腰に挟んだ手拭いを抜き取って、額の汗と手の平を擦り、約束の本を洋子ちゃんに手渡している。
 「もうすぐ、この人ゆくの」と、俯いたままの友は微かに首を振る。世間の大人達が言うように「おめでとう御座います」などとは決して口にすまいと、ハルは唇を噛んで頭だけ下げた。その時、どうした事か洋子ちゃんの穿いているモンペが、腰のボタンでも千切れたかストンと足首まで落ちた。衆目を庇った恋人は洋子ちゃんに背を向けぴったりと張り付き、ハルも友の背に駆け寄る。思わぬ出来事に口をポカンとあけたままの友は、気付くと身を揉んですすり泣いた。戦時下にせよ、際立つ美貌は隠しがたく、将来、服飾で身を立てたいと口癖の彼女は、日頃からおしゃれ隠しの天才を自負していたから、恋人の前で今流す涙が痛ましかった。黒地に黄の小花模様の服地で仕立てた。形の良いモンペは、やたらの人には手に入れぬ。先程からちらちら眺めていた周囲の女の目は、、美しいレースをたっぷり使った下着が現れた。いくつかの古着をかき集めて夜なべに工夫の友の作品とはこれだったのか。美を敵として見なすよう躾けられた国民は、羨望を冷たい怒りに変え無言で友を射る。ハルはそれらの目に立ちはだかり、不当な目を見返して廻る。ハルの背に彼女を思う恋人の荒い息が聞こえた。
 泣く友の耳に口を寄せ、「時間の方が大切よ」と手持ちの安全ピンをハルは二個渡す。素早く身仕舞いを終えた友の肩を突然とんと叩くハル。よろける彼女を恋人が優しく抱きとめるのをハルはニヤリと見とどけ電車に乗る。
 ハルは遠ざかる友に、束の間であれ幸せあれかしと喝采を送った。目隠しされた青春の合間。寸時なりとも解き放されたこの爽やかさ、車窓から入りくる初夏の風を受け、ハルの背の三つ編みの髪は若い生命をたっぶりふくんで揺れる。
 
   
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連載小説「神楽坂」第13回

連載小説「神楽坂」       第12回

第13回

  徴兵年齢が一年引き下げられ、第一回出陣学徒壮行大会が神宮の森で行なわれ、ハルの学校の生徒はこの式に真っ先に列席する。カボチャの父上の甲高い演説の声は、降り止まぬ雨足をつき破り、神宮の空にわだかまる雨雲を走らせる。学生服にゲートルを巻いた足並みは雨を蹴散らし、目深く学帽を被った行進は長く長く続く。銃を担ぎ肩から斜めにかけた日の丸は点々と雨に濡れそぼち、血の滴りを思わせた。みんな往ってしまう。みんな死に急ぐ。涙と雨が顔に流れ、薄ら寒さが襲い、歯がカチカチと鳴った。

 学徒動員が本格的に決まり、下級生は学校で作業、教室に黒い幕が張り巡らされ、我々上級生といえども立ち入り禁止である。我々の通う工場は、大崎の明電舎。通信機の部分品の作成。大都市に疎開命令が出され、田舎へ帰れぬ学童は、集団学童疎開に加わる。家庭用の砂糖配給停止となり、町のそこここに雑炊食堂が開かれた。
 父は、入舟町のお婆ちゃんの実家東村山の近くへ、一反の農地を手に入れ、その中央に家を建て、残る三分の二は畠とし自給自足の生活に入った。建てて間のない江古田の家は父の友人に貸し、入舟町のお婆ちゃんは、ゲンを連れ店を知り合いの同業者に貸して東村山に引っ越して来た。
 
 ゲンもハルも、朝早く起きて東村山から東京の工場へ通う。父は、大八車を手に入れ、焼けぬ内にと神楽坂から遠い道のりをものともせず荷を運ぶ。禿げた頭に濡れ手拭いをのせ、身に余る大八車はあべこべに父を引きずる。憑かれた父はひたすら荷を引く。父の身体はみるみる陽にやけ、小物の時計修理は手が震えて出来なくなった。人も車も戦に刈りだされ、必死で自分を守らねばならぬ時代に入った。
 
 三月にはB29の東京大空襲。江東区全滅。五月の大空襲では、都区内の大半が焼失した。神楽坂と江古田もすべて灰になってしまった。夕方、畠で何をするでもなく立ちすくむ父の後姿に、食事を告げに出たハルは、声もかけられず、惚けた父の肩に子として初めての老いを見た。    
 
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連載小説「神楽坂」第12回

連載小説「神楽坂」         第11回

第12回

 高村光太郎氏の「智恵子抄」が発刊され、北原白秋氏が亡くなられた。学生生活は奉仕の明け暮れで、勉強時間が少なくなった。すべて命令の枠の中で動いている。何やら口に出せぬ不安に、唯々ハルは本を読んでいた。ハルの家には、父の本箱と、母の本棚がある。父の本箱の方は、豪華なガラス戸付きの中に、さして手垢にもまみれぬ本が数少ないもたれ合っている。岡本綺堂「半七捕物帖」の分厚い紺の表紙にはじまり、中里介山「大菩薩峠」と、隣には薄い和綴じの川柳の本が雑多に並べられている。どの本を取り出しても、一向に叱られないが、川柳の本にだけは手をふれても父は叱る。酒乱の父親と、目から鼻に抜ける母親、手のつけようのない遊び好きの弟を身内に、日がな使用人の目に囲まれ、妻に気兼ねのこの当時、父がたった一つ通した道楽が川柳であった。

 ハルが幼稚園の時、父に手を引かれ、たどりつけば一人で遊ばされたのは、向島の百花苑であった。細長い紙を手に、考え込んでいる集団の中の父は、家では見られぬ顔付きして楽しそうだ。ハルがおとなしく父を待てば、戻り道、浅草の松屋で好きなオモチャを買ってもらえる。川柳を「カワヤナギ」と始めに読んだハルが、あの時の集団の中で一番偉かった人はと、すぐる父に尋ねたら、川上あめんぼうと言い、その後、川上三太郎と名乗った川柳の神様だと教えられた。思うに、気の小さい父のせめてもの憩いは、斜にかまえた川柳の世界にこそあったのだろうか。

 母の本棚の方は、まさしくリンゴ箱の廃物利用で、ざらつく板に色紙を張り付け、控え目に部屋の隅につられている。控え目に置かれた程には、本の数は多く、本の内容は父の考えを突き抜けて大胆で、谷崎潤一郎「痴人の愛」「蓼食う虫」など、母の本棚から、ハルが繰り返し読んだ本には、賀川豊彦「死線を越えて」と、「太陽を射るもの」がある。いつからか、この二冊の得がたい本は消えていた。翻訳物は、軍医で戦に往った母方の昇叔父の本棚を漁った。カビくさい蔵の二階、わずかに差し込む陽を頼りに、セピア色に乾いた古本の匂いは、たぎる青春に安息をあたえてくれる。昼は、勤労奉仕、夜は読書、まるでインクのスポイトのようにハルは活字を吸い上げていた。
    
 
 (つづく)  第13回へ

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プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

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