fc2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載小説「昭和に生きて」第2話第2回

連載小説「昭和に生きて」

第2話「怪物のような民主主義日本上陸」

  第2回

 「泣くなよの十六歳です」

 新宿東口の紀伊國屋書店へは、学校帰り毎日通っていた。ザラ紙に印刷された初版の「静かなドン」(ショーロホフ)をやっと手に入れた時は涙が出た。当時の紀伊國屋書店はプレハブ二階建で奥へと細長く、階下で立ち読みをしていると、二階を歩く人達の靴音がガラガラと階下に響きわたり、ザラザラと砂ぼこりが降ってきそうな店構えだった。それでも、人々は砂地にふる雨のように、書店に吸い込まれてゆく。どこに眠っていたのか古書が売り場にあふれ始めた。
 戦中、叔父の家の倉の中で隠れて読みふけった、ジイドの「狭き門 」「女の学校・ロベール」「未完の告白」「一粒の麦もし死なずぱ」「田園交響楽」トルストイの「人生論」までもが手さえのばせば、すぐ目の前でつかめるのだ。

 だが、その時私が珠玉とも思えたのは、「パスカルの瞑想録」の一冊であった。されど、高くて買えないもどかしさ。或る日、店の用事を済ませた帰り、ふらっと寄った神田の本屋街。街のはずれの小さな古書店。そろそろ秋風が北風にかわりそうな夕まぐれ。私はこの珠玉の一冊に出逢い、全身の血が湧き立ってしまった。
 人気も少なく、店の主人は奥でうたた寝する有難さ。私はさりげない風で、常に持ち歩くB4のノートを取り出し、必死のスピードで、珠玉の一冊の第一ページから、金魚すくいの綱をかまえる思いで、活字をすくい上げていった。
 第一回目。約一時間書き写す。店の主人はこっくりうたた寝。シメコのうさぎじゃ。
 第二回目。金曜日の放課後、神田へ直行。 (古書店内にて、約一時間二十分。)店の主人立ち上がり、はたきをかけつつ、店内をひと巡り。こちらも立ち上がり、店の外へ。近くの店で今川焼を二個買う。あわてて食べたので、胸につかえる。再び書店に戻れば、主人殿またもうたた寝。おじさんの足元には練炭火鉢。だから、おじさん、コックリコックリ、練炭火鉢に感謝。書き取り、追加三十分。今日はずいぶん写せた。絶好調なり。冬休みに入れば、もっともっと進むならん。ニッタリ。ホクホク。
 第三回目。期末試験の為、しばらくご無沙汰でありました。(古害店内で、本日、一時間三十五分。)おじさん、風邪気味、時々、咳き込み、頭をふりふり、背筋を伸ばした。まずは、御身お大切に。ややや、始めてのジロリ。何故だか、思わず最敬礼。とにもかくにも店の外へ。ほとぼり、ほとほと冷ましに、またまた、今川焼。なーんだ、サッカリン入り。あんこは、いもまぜ、塩の入れすぎ。ほとぼり、ほとほと舞い戻れば、悲しや小雨はらはら落ちる。冷たい師走。手袋出来ない、スピード落ちる。パスカル様に祈りささげて、スピード上げる。
 腕が重いよ、首根がつっぱる。肩こり、肩こり、肩叩き。えっ、肩たたき?
「あっ、おじさん」「あっ、すみません」塩をふられたナメクジになりたい、ああ、変身したいよ、カフカ様。「ほら、よっ」「ほら、よっ」とおじさんの声がしています。
 あれ、おじさんが小型の椅子を私のすくむ足元に置きましたが、身体が動かないのです。
「ほら、よっ」軽ぐ肩を叩かれ、涙の顔で小椅子にへなへな。嬉し恥ずかし、活字は人情で雨曇り。
 今日は書けない。もう、今日は書けやしないよ。感謝デー。
 おじさんにたくさんあやまり、帰りかけたら、「また、おいで」と、すぼめた私の背におじさんの一言。
 その日、この有難さを伝えに、母の待つ東村山の家へ帰った。約半分近く写し終えたと母に言うと、二の次は、いつ行くのだと母は聞いた。冬休みに入ったある日、出かける私の背に母は、米の入ったリュックを背負わせ、ピンビンのお札を私の赤いガマロに入れた。
 「本を売っていただきなさい、必ず、あなたがめくり続けた本をね、商人の子なんだから、商品は大切にするものです。」と、やたら怒らぬ母の、久しぶりの言葉は、ずしりと私の胸に納まり今も消えない。
 神田の本屋のおじさんは、幾度も頭を下げる私に、たっぷりおつり銭を手渡すと、「勉強しなよ」と、大きなジロリで、大きな手を振った。私は、背負ってきたお米をそっとおじさんの足元に置くと、一目散で神田の街並みを走り抜けた。嬉しくて、嬉しくて、お茶の水駅前の聖橋の上までやって来ると、夕焼けの空が見事に美しいじゃあーりませんか。
 並木路子の歌う「リンゴの歌」が、どこの街にも流れていた。それ以来、「パスカル」と「リンゴの歌」は、私の記憶の中で、いつも手をつないでいる。

 新宿東口の改札を出た右側にモルタル三階建の「聚楽」というレストランがあった。地下には生バンドが入っていた。その前の通りは、週末になると、GI(アメリカ兵士)だらけになる。洋モク(アメリカたばこ) のしゃれたワンカートンボックスが、あこがれのチョコレートがガムがキャンディーが、茶色に銀色の浮き文字のハーシィーのココアの缶が、その他もろもろの食品が、街角のそこここでGIの手から、ラッバズボンのお兄ちゃんの手へと渡ってゆく。

すると、身軽になったGIに、やおらもたれかかり、腕をとる日本のおねえさん。パラシュートのようなスカートをはき、パーマのかかった髪をたっぷりしたネッカチーフで包み、バラの花びらが張り付いたかと見まがう唇に、洋モクが煙りたつ。.このストリートスタイルのお姉さん達を街の人々は、パンパンと呼んだ。街角での取り引きを終えたGIは、くだんのお姉さん達にいざなわれ、カップルで街に溶け込んでゆく。
 今やいきなり人と光と色彩があふれ出した新宿の街は、毎日がメリークリスマスの様変りだった。過去の日本が、ぐいぐい日本の色をからめとり、後へと流れて過ぎる。

 敗戦直後の日本民衆はレールの存在も乗り換える駅の様子もわからぬまま、配られた「平和」というまっ白なチケットを握り締め、生きて行かなければならない。ある人はオロオロと、ある人はギラギラと。

 幸せよ、我が生命よと、手さぐりす、
ふき上ぐる思いは、インクの壷へ

                                  (秋風の十六歳作)


                                       (つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。


スポンサーサイト



連載小説「昭和に生きて」第2話第1回

連載小説「昭和に生きて」

第2話「怪物のような民主主義日本上陸」

  第1回

 昭和二十年九月一日。我々学徒は、工場(大崎明電舎)から、新宿の校舎へ戻った。
 赤煉瓦の枚舎は、外側だけが残り、内装はすっかり焼けただれ、火事場の匂いがなかなか抜けない。
 戦に負けようとも、校舎の外壁を伝う、なつかしき蔦の葉はたくましく、久しぶりの我々の登校を緑のもろ手を広げ迎えてくれた。つい先頃まで、「天地正大の気、粋然として神州に」に始まる藤田東湖の詩を、毎朝の朝礼で吟じていた私達は、戦が終わるや、リンカーンの、ゲティスバーグでの演説文。「人民の、人民による、人民の為の政治」と、タコ壺防空壕が手付かずに散在する校庭で唱和していた。勿論、涙ぐましいカナフリの英文であった。
 戦時中、突然の英語禁止の国策に出逢い、今更、省略された頭で高学年用のリーダー抱えさせられる身の不運。教科の差し戻しもなく。教育界の慌ただしい変貌の狭間であえぎまくる我々であった。
 むき出しのコンクリートに黒板を立てかけ、すすけた机と椅子が取り合えず並ぶ教室。新渡戸稲造、内村艦三の足跡が語られ、駆け足の民主主義が校舎を包みこんでゆく。
 体操の時間はかつて、すきっ腹にスコップを握り、必死で掘ったなつかしのタコ壷防空壕の埋め立て。
 「第三分隊の第一班は北側へ」なんぞと、先生のかけ声は決して轟き渡らぬが、命令されなくても、自分の汗で堀ったものの位置は悲しくも覚えていた。
 深さこメートル五十センチ、直径一メートルの一回も御使用なしのタコ壺防来壕にかけ寄れば、「おんなじ、あの時と同じ」、同じ顔ぶれが同じ記憶をたどり、同じ場所に立っていたのだ。かくて同期の小桜達は、もう決して掘るまいぞと、新しい土の上を、スコップで叩きまくり、お下げの髪をゆすり上げた。
 校庭は高い塀に囲われてはあるけれど、塀の隙間から見れば、新宿の西日駅前は一望なのだ。
 突然日本上陸の民主主義は、まずは世論をからめ取り、いまどきの宅患便の素早さで生情報を我等に手渡して行き過ぎる。
 生まれ変わる日本の秋が、厳しさとアンバランスな自由を宿題に、日々、目の前にあった。


 ニヒルだと言われしは春、物言わず過ごせしは夏、
 立ち止まり泣きしは秋ぞ、センチメンタル

                                  (戸惑う十五歳作)

 (つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第6回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第6回

 数寄屋橋には、恩い出が詰まっている。たしかに、橋があって、橋の下には水が流れていた。カモメが水平線すれすれに飛び交っていた、ああ、数寄屋橋。 『君の名は』・・・春樹・マチ子の数寄屋橋。三輪車で数寄屋橋を渡り、日比谷公園まで遠出したら、日が暮れてしまった。迷子になったかと、御近所のおばさん達まで御親切に、あわててくださった。五歳の私は、新しい道を覚えた嬉しさに、偉そうな顔で三輸車コトコトと戻ったら、優しいおばあちゃんが、角の桶屋さんの前で涙ぐんで立っていた。あたしは、自信があったのに、ただ、日が暮れちゃっただけなのだから・・・訳も解らず、おぱあちゃんに飛びついた。おばあちゃんの涙しょっぱかった。
 小学枚一年生で、支那事変が始まり、小学校六年生の十二月八日、大東亜戦争勃発。カーキー色が街中にあふれ、「ぜいたくは敵だ」のポスターも貼られたが、ぜいたくって神楽坂のオセンベイの名前さ、なんて、酒落者の叔父が、だじゃれを言った。街から原色が消え、白地に赤い日の九だけが目を射る。
 チャンバラゴッコは、戦争ゴッコに変わり、男の子は大きくなったら、陸軍大将になるんだと目を輝かせ、女の子は従軍看護婦さんになると、あたり前のように答えていた。
 隅田川の花火大会は勿諮中止で、それに代わり、東京の夜空を探照灯の高く長い光が交差しながら、我がもの顔に走る。とんとんとんからりの隣組のおじさんも、おばさんも、どんどん疎開をはじめ、田舎のある友達は、田舎へ転校し、お教室の机は、空いた椅子を抱え、ボツボツと寂しくなってしまった。
 わが家も、大磯にある家を手離し、東村山に土地を買い、家を建てた。疎開である。小さな妹と弟は転校。母について引越してゆく。入舟町のおばあちゃんも一緒。東京の家族がばらばらにくだけて行く。不足と不満が街中にみなぎり、景色が灰色に染まり。人々は沈黙した。

 (第1話了 第2話へ続く)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第5回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第5回

  京橋入舟町の店では、乳母日傘(おんばひがさ)で育ったといわれる祖母が、時を忘れる程ゆったりと優しく、この祖母の笑顔に許され、好きな時間がたっぷりと使えた。私と一つ違いの源叔父とは、叔父・姪でもあり、乳兄弟であった。二十歳で私を生んだ母は、心膿脚気の気味で、産後の日だちも悪く、前年源叔父を生んだ祖母の乳を私は祖母乳として頂戴していた。この叔父は、幼い折、身体が弱く腺病質。走って、溢れる祖母乳を頂戴している私は、むくむくと太るのに、小さな叔父は、夜鳴きのピーピー坊やであった。なのに、庇をお借りしている私は、母屋までも足をのばすお元気な赤ん坊ちゃん。
 ちゃんばらゴッコでは、この叔父ときたら、いつも「御用、御用」の取り方ばっかり。情けないったらあーりゃしない。丹下左膳ゴッコでは、私はチョピやす。子役ではあるが、まぁまぁの脇役で、結構目立つ訳だ。
 家の勝手口から、そーっと入るや、味噌壷を盗み、中身の味噌をどんぶりにあけ、アミの張ってあるハイチョウと呼ばれる戸棚にしまう。洗った壷は、なるべく派手な風呂敷に包む。
 勇み立つ私は、この壷を胸にしっかりと抱え、友達の待つ公園に走る。チョビやすになったら、コケ猿の壷御用達が、何よりのお約束なのだ。たとえ、大人に叱られようが壷御用達の出来ぬ奴には、この役所は回ってこない。
東京湾の潮風が流れる、入舟町の夕焼けの空。こうして今日も、やっぱり優しいおばあちゃんに叱られた。何度叱られても、当り役から降りる気は、サラサラなく、今日もおぼろな昼の月に向かって胸をはる。小学校三年生であった。
 佃の渡しは、私のゆりかごだ。佃煮を買いに走り、佃の渡しを舟にゆられて昼寝した。舟のおじさんは顔見知り、遊びつかれた小学生の昼穫を大目に見てくれて、起きれば、ねぼけたままの小さな私の口にサラシ飴をポンと放り込んでくれた。ゆったりとした、あの東京の優しい時の流れは、今や何処へいってしまったのだろう。

 松かさねようとも 逃れようなき乳兄妹
  幕あけの町そぞろ入り舟


 (つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第4回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第4回

 私の母は、奥向きの仕事をするよりも、商いの上手な人だった。惰もあったが、母にとっては強くてこわい姑が亡くなると、店も奥も母の独壇場となった。母が店に立つと、店の人達も商品も華やいだ。従って、父は、大きな金庫を背に、愛敬のある顔でゆったりと座るだけ。角帯にお召の前かけをきっちりとしめた昔風の商いの姿。この父の姿が私は大好きだった。店の三軒隣りに、あんぱんの木村屋さんがあり、寒い冬の日は、パン工場のパン焼き釜の近くで、よく宿題をさせてもらった。パンの香りにうっとりしながら、鉛筆を持ったままうたた寝をしたものだ。小さなメリーミルクの缶詰をこの店で私はよく買っていた。この缶にニカ所穴を空けてもらう為、父が暇になるのを店の人口で待つ。毎度のことだから、父の目と逢うなり、それと察して父は手招きをレてくれる。母に叱られぬように、静かに店に入ると、父は太いねじ回しで穴を空けてくれる。しばらくは、父の膝の上で、缶の穴に口をつけ、チューチューと甘いミルクをすい続ける。やがて父は、そんな私の横顔にザラザラをする。ザラザラとは、父の髭のことで、父はよく私の小さなホッペに、濃い自分の頬の髭をこすりつけ。 「ザラザラ」とゆつくり言って優しく笑ったものだ。
「やだやだ」と言いながらも、私はこのザラザラが大好きだった。私にとっての異性への人口は、きっとこのザラザラだったのかもしれない。

 神楽坂には、一丁目と二丁目と三丁目があり、祭りになると、芸者さんがいつもより者飾り、お神酒所の旦那衆も若やぐ。子供達は、小若ばんてんをひるがえし、走り回る。勿論私も小若ぱんてんさ、おきゃん(お転婆)な私は、ジャラジャラと山車なんぞ引いちゃいない。御輿を肩に、今にも水をかけられるのを待ちながら、アゴで男の子を叱咤激励してしまう。喧嘩は年下の子とするのは恥で、六年生を向うに、力じゃ負けるがおきまりなので、喋りで畳み掛けていく。たいていの上級生は、面倒になり走って行ってしまう。力で攻められると、消しゴム片手に、坊主頭をなで切りにする。坊主頭を消しゴムで擦ると、これがすごく痛いのである。
 父が男の子を欲しがったせいか、私は男の子のように育てられた。もっとも、当時としては、母も飛んだ女であったから、勉強さえちゃんとしていれば、たいてい大目に見てくれたものだ。むしろ、それが正義であれば、はなから負けると知った喧嘩なぞするなと言われた。こうして、私はスカートよりも、お気に入りの乗馬ズボンをはき、刈り上げのオカッパ頭をふりふり、夜店のバナナの叩き売りのおじさんに逢いに行く。
 かつて、神楽坂の縁日は、毎夜立ったものだ。古本屋のおばさんの所では、本の立ち読み。アセチレンランプの変な匂いも気にならず、菊池寛著「第二の接吻」を夢中になって読んでいたら、母の手が後から伸びるや、パシッと尻をぶたれた。まずい事に、この本屋さん、うちの店の前に毎夜出ていたんだもの。母の読む婦人雑誌なんぞは、トイレの中。和式が嫌いなのは、今もって同じ。長逗留で腰が痛むからだ。仮性近視になり、いっとき眼鏡を使ったのは、この頃(小学校三年生)だった。だって、昔のトイレのあかりは暗かったもの。子供に乳をふくませている間も、本を手放さぬ母なのに、育ち盛りの読書には、やたらうるさい人だった。

 (つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第3回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第3回

 私の第二のふるさとは、京橋の入舟町。母の実家である。ここも、祖父の代から、同じ商いの時計・眼鏡・貴金属商。先祖が旗本だと言われていたが、武士の商法で幾度も、商売替えをしたあげく、母の父は、父の父に弟子入りをする。やがて、その地で一人立ちし、店を持つが、子沢山の一家であった。その後、それが縁で、母は経済的な理由もあり、父の許へと嫁いで来た次第。私が年頃になった時、「どうして、お母さんを好きになったの?」とくどいように父に聞くと、父のロマンティックな返事は決まっていた。

 「浅草の電機館のそばに電信柱があったのさ、その陰で、十八歳のお母さんが、肩あげも取れてない着物に、三尺(へこ帯のこと)をしめて立っていた。お互いに親に言われた待ち合わせでね。ポッチャリとした可愛い姿に、お父さんが惚れたのさ」

 私はこの話をする父の照れた姿見たさと、この返事が大妊きで、幾度となく聞いたものだ。この返事の通り、荒波にもまれる人生の中、先立っていった母に惚れ抜いたまま、父は生涯を終えた。
 すぐ下の妹は、元来身体が弱く。私は小学枚の六年生まで、入舟町の母の実家にあずけられていた。当時、「次郎物語」という映面がヒットを飛ばしていたが、この映画を見て以来、この物語に自分の毎日を重ねては、不幸のヒロインのように思いつめたりした。  この頃は、チンチン電車にゆられ、入舟町の店から、牛込見附(神楽坂下)まで、小学校へ通う。父も叔父も同窓生である津久戸小学校であった。築地東劇の前にあった橋をチンチン電車が渡ってゆくと、白いカモメが朝靄を分けて飛び立つ。このカモメ。数寄屋橋の川面までも、潮風に運ばれ、飛び交っていたっけ。

   入り潮の香もなくネオンの波ばかり
   迷いカモメかここは数寄屋橋


 (つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第2回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第2回

 私がふるさとと呼べる場所は、さしずめ神楽坂から始まる。神楽坂を登りきった所に「助六」という履物屋があった(現在もある)。そのちょうど向い側に、祖父の代からの、時計・眼鏡・貴金属を商う店。
  (祖父は明治初年より横浜の外国人の許で、時計・眼鏡の修業を終え、神田で時計工場を持った人だと聞かされる。ゆえに、横浜と聞いただけで、私の血は騒いでしまう。)

 坂の上のこの店で、あの暑い敗戦の夏までを、私は父と共に店を守った。当時、眼鏡を必要とした出征兵士は、最低、三組の眼鏡を大切にそろえて戦場に赴いたものだった。従って、少々の警戒警報では、防空壕に引き込んだレンズ砥石のモーターの音は止まらない。十三歳の夏から、父に教えられたレンズ加工は、どうやら私の身について、たまには、忙しさに理由をつけ、学校を休むと、父と共にじめじめした防空壕の中で、レンズ砥石をまわした。商いの好きな私は、このモーターの熱気が親元を離れた折りにも忘れられず、嫁に行こうが、折々かえっては、レンズ砥石の前に立った。それが、その先、二十六歳の夏、始めてメガネ屋開店となろうとは。所詮、私の一生は、商いと切れようがなく、商いは、私の身体の源流でもあった。

 私の幼時は、靖国神杜のそばにある、富士見幼稚園に通った。今、言われる年小組で、おそ生まれなので、四年も通っていた。母がはかせたウールのズボンの裾をひるがえし、赤い靴を音高く鳴らし、四歳の小さな足は、富士見幼稚園の門にたどりつく。
 飯田橋駅前では、当時ルンペンと呼ばれる髭だらけのおじさんに呼び止められ、バスケットの中に納まるお弁当を何度も食べられてしまった。怖いおじさんは、手持ちの器に、お弁当の中身を素早くあけ、ニヤリと笑いながら、もと通りバスケットを私につかませる。四歳は、唯々驚いて、おじさんおじさんと大きな声を上げる。おじさんは、日に焼けた茶色の手に、破れた手拭をつかみ、大きく、大きくふり立て、シッ、シッと私を追い払うや、土手公園の松の木に向って走り続けた。
 空っぽの弁当箱を持ったままの通園に、先生が家にこられた。いぶかる大人達に囲まれ、私は母の目をみつめ、切れ切れの単語を並べていたのだろう。あくる日より、父方の叔父が通園する私をそっとつけはじめる。或る日、あの茶色の恐い手の上に、背の高い大きな叔父の手が重ねられる。この日より、ひものついたバスケットは、私の肩からのどかにゆれて、幼稚園の門をくぐるようになった。
 以来、叔父は午前中の店の仕事をせずに、唄いながら、私と共に通園するようになった。叔父の唄う流行歌は、先生にも、お母さんにも内緒。毎月ゆく宝塚歌劇も、田園交響楽を聞いたのも、映画『駅馬車』を牛込館で見せてくれたのも、新宿中村屋のカリーライスの味を教えてくれたのも、みんなみんなこの叔父であった。
 叔父と一緒の通園で問題になったのは、幼稚園のブランコにゆられ、私を待ちながら、うっとりと唄う叔父の「愛染かつら」のメロディーであった。熊手を小脇に抱えた小使いのおじさんに叱られても、シャランとした面長の叔父の顔は、「あら、なぜかしら」であった。この叔父の長い顔は、恐いくらい嵐寛十郎(初代、鞍馬天狗であります)に似ていて、新宿日活に行った時など、映画館の支配人に呼び止められ、「先生、先生」なんぞと祭り上げられ、ロハ(ただ)で映画を見てしまう。しかし、映画館を出るのに、困り果て、叔父は私をだき抱えるや、しゃれたハンチングを目深くかぶり、モギリ(切符切り)のお姉さんの横をかけ抜けた。

  坂のあるふるさと訪で神楽祭り
     織りまぜて晒むか江戸の川風


(つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

連載小説「昭和に生きて」第1話第1回

連載小説「昭和に生きて」

第1話「山の手・下町・たけくらべ」

  第1回

 私が抱え続ける血は四代をさかのぼり、お江戸で生をさらして来た。義理人惰と、しがらみを粋に仕上げ、旅立った御先祖さん。今頃、卒塔婆の陰から、ペロッと赤い舌なぞのぞかせて、「なにが平成の御時世だい、ちっとも平らじゃありゃすめえが」なんぞと、舌打ちしていなさろう。 「涙も笑いもすべて斜に、かるくいなしてこそお江戸の人気さ、それが正義であるならぱ、負ける喧嘩なんぞするんじゃねえ、うろたえるなよ」と一喝しそうな御先祖さんは、今も、お江戸の地べたにお眠りでござる。

 そんな家の風を背負う商家が、山の手と下町にあって、これが、花柳界を背にした場であって見れば、私の育ちのお里は知れようと言うものだ。山の手風の、たけくらべ、下町風のたけくらべ、昭和初期のたけくらべは、変動の歴史にゆさぶられ、悲喜こもごもの様相をきざみ流れつづけた。もっとも、物資欠乏の時代をまたぐ、丈くらべは、竹にもなれず、笹くらべ程度 でもあったか。されど、身体にひそむ憧れは、吹きすぎる戦の嵐にあおられようとも、笹なりにザワザワと騒ぐ音を忍んでいた。

  坂のあるふるさと訪で神楽祭り
     メンコ・ベーゴマ・切れ切れの夢


(つづく)      

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

予告 連載小説第2弾が始まります

予告 連載小説第2弾が始まります

 全31回にわたって掲載した連載小説「神楽坂」に続いて、連載小説の第2弾「昭和に生きて」が近々に始まります。「昭和に生きて」は小説に短歌が挿入される形式の作品です。よろしくお願いします。


にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村  ←こちらをクリックよろしくお願いします。

FC2カウンター

プロフィール

可久鼓桃

Author:可久鼓桃
東京・京橋生まれの神楽坂育ち。
江戸っ子3代目。
昭和4年生まれの88歳。
短歌、詩、小説、絵画など幅広く表現。
運命鑑定家でもある。

最近の記事

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。