可久鼓桃の一人同人誌「人間日和」

東京・京橋生まれの神楽坂育ち、80歳の江戸っ子3代目歌人「可久鼓桃(かくことう)」が 自作の短歌・詩・エッセイ・小説を発表する一人同人誌「人間日和(にんげんびより)」

連載小説「神楽坂」第15回

連載小説「神楽坂」       第14回

第15回

 今日はまだ警報が鳴っていない。警報に出会うと電車が止まり、酷い日は線路の上を小犬の様に歩く。肩からかけた水筒と、手縫いの布カバンの中には、米と梅干しと味噌。父が無理に持たせる防毒マスク。赤チン、メンタム、三角巾。唐草の大風呂敷に、手放せぬ愛読書一冊。背中に廻した防空頭巾。これも父が無理に持たせる鉄兜。
 「鉄兜は顔が洗えて飯が炊け、水を汲めば火が消せる」と父はしつこく言う。
 身体を取り巻く七つ道具は、明日をも知れぬ青春の肩に食い込み、飛行機雲が真綿を引きのばしたように浮かぶ日本の空を仰ぎ、神風は本当に吹いて呉れるのだろうか、なぞと。

 中央線は意外にスピードを出して走るから、国分寺廻りで家に帰る。遂に三鷹の少し手前で今日も無慈悲な警報が鳴った。三鷹の駅で停車。乗客は改札口から駅前の防空壕へ。馴れた足どりで素早く待避。はるかの空から翼を連ねた大編隊がごうごうと音高くやってくる。壕の入り口にいたハルは、広場の中央に叫び声をあげる白い塊を見つけた。人間だ。割烹着を着たお婆さんだ。「白は殺られる!」。咄嗟にハルは七つ道具をかなぐり捨て、カバンの底から唐草の大風呂敷を引きずり出し、急いで被る。教練の時間に習った匍匐前進で震える白い塊へと近づき、両手に掴む大風呂敷を我が身諸共がばと覆いかぶせた。
 「動けますか」聞いてみるが目をむいて取り縋るだけ。
 「少し苦しいけれど、我慢してください」
ハルはお婆さんの身体の下に潜り、風呂敷を飛ばぬようにしっかり掴み、お婆さんを背に乗せたまま、じりじりと這いつづけた。やっと防空壕に辿り着いた。すると、壕の中で拍手が渦巻いた。見る間に広場も防空壕の周辺も、低空で飛ぶ敵機のあげる土煙りに包まれた。壕の奥で「中島飛行機がやられるな」と誰かの声。
 お婆さんは鼻水を啜りハルに手を合わせた。ハルは照れて大きな目を擦ると、今頃になって身体がぶるっと震えた。手持ちの梅干しを一つ囓り、水筒の水を喉を鳴らしてごくんと飲んだ。警報解除に、今日も助かったかと、動き出す電車に乗る。気が付くともんぺにつけた大切なピンクのリボンが無くなっていた。
    
 (つづく)

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  1. 2009/07/02(木) 23:00:49|
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連載小説「神楽坂」第14回

連載小説「神楽坂」       第13回

第14回


 弟の下に妹が生まれ、ハルは五人兄弟の総領になっていた。空襲は益々激しくなり、夜空から照明弾がゆらゆらと落ちてくる。初めて空から落ちてくるあかりを、爆弾と勘違いして、隣の桑畑の中をハルは三女ヒサの手を預けられ、家族全員で右往左往した。毎度、我が家が標的であるかのように、遙か彼方で急降下した敵機は、我が家の真上で急上昇する。双眼鏡を構えてその敵機に視点をあてれば、鼻の尖った外人の顔がハルの目にはっきりと写った。「見えたぞ、見えたぞ」と大声張り上げるハルに、「爆弾を落とされたら大変でしょ」と母はきつく叱り、双眼鏡は取り上げられてしまった。

 出がけに水盃でも済ませた目付きを母と交わし、ハルは大崎の明電舎へ通う。疎開もせず下町から通う友が或る日死んだ。総理大臣をたまたま父に持った級友は、いつからか姿を消し、もはや誰も彼女の行方すら尋ねるゆとりを無くしていた。毎日が戦いのニュースと警報のサイレンに追い立てられ、戸惑いながら過ぎてゆく。母の鏡台の奥に大切にしまってあるリボンを取り出し、もんぺの腰の左隅に小さく結び付けた。誰ともなく始めたこのおしゃれは、日の丸鉢巻の下にすら隠しきれぬ青春の証だった。

 新宿で共に乗り換える洋子ちゃんと、ハルは早めに工場を出た。新宿の中央階段の下で待つという、洋子ちゃんの恋人に引き合わされる。早晩、出陣学徒として立ち去る大学生は、軍服の似合いそうな凛々しさ、丈高い身体に詰め襟の学生服、艶の出た破帽に手をかけ、かるく挨拶を交わすと、腰に挟んだ手拭いを抜き取って、額の汗と手の平を擦り、約束の本を洋子ちゃんに手渡している。
 「もうすぐ、この人ゆくの」と、俯いたままの友は微かに首を振る。世間の大人達が言うように「おめでとう御座います」などとは決して口にすまいと、ハルは唇を噛んで頭だけ下げた。その時、どうした事か洋子ちゃんの穿いているモンペが、腰のボタンでも千切れたかストンと足首まで落ちた。衆目を庇った恋人は洋子ちゃんに背を向けぴったりと張り付き、ハルも友の背に駆け寄る。思わぬ出来事に口をポカンとあけたままの友は、気付くと身を揉んですすり泣いた。戦時下にせよ、際立つ美貌は隠しがたく、将来、服飾で身を立てたいと口癖の彼女は、日頃からおしゃれ隠しの天才を自負していたから、恋人の前で今流す涙が痛ましかった。黒地に黄の小花模様の服地で仕立てた。形の良いモンペは、やたらの人には手に入れぬ。先程からちらちら眺めていた周囲の女の目は、、美しいレースをたっぷり使った下着が現れた。いくつかの古着をかき集めて夜なべに工夫の友の作品とはこれだったのか。美を敵として見なすよう躾けられた国民は、羨望を冷たい怒りに変え無言で友を射る。ハルはそれらの目に立ちはだかり、不当な目を見返して廻る。ハルの背に彼女を思う恋人の荒い息が聞こえた。
 泣く友の耳に口を寄せ、「時間の方が大切よ」と手持ちの安全ピンをハルは二個渡す。素早く身仕舞いを終えた友の肩を突然とんと叩くハル。よろける彼女を恋人が優しく抱きとめるのをハルはニヤリと見とどけ電車に乗る。
 ハルは遠ざかる友に、束の間であれ幸せあれかしと喝采を送った。目隠しされた青春の合間。寸時なりとも解き放されたこの爽やかさ、車窓から入りくる初夏の風を受け、ハルの背の三つ編みの髪は若い生命をたっぶりふくんで揺れる。
 
   
 (つづく)  第15回へ



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  1. 2009/06/24(水) 22:00:00|
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連載小説「神楽坂」第13回

連載小説「神楽坂」       第12回

第13回

  徴兵年齢が一年引き下げられ、第一回出陣学徒壮行大会が神宮の森で行なわれ、ハルの学校の生徒はこの式に真っ先に列席する。カボチャの父上の甲高い演説の声は、降り止まぬ雨足をつき破り、神宮の空にわだかまる雨雲を走らせる。学生服にゲートルを巻いた足並みは雨を蹴散らし、目深く学帽を被った行進は長く長く続く。銃を担ぎ肩から斜めにかけた日の丸は点々と雨に濡れそぼち、血の滴りを思わせた。みんな往ってしまう。みんな死に急ぐ。涙と雨が顔に流れ、薄ら寒さが襲い、歯がカチカチと鳴った。

 学徒動員が本格的に決まり、下級生は学校で作業、教室に黒い幕が張り巡らされ、我々上級生といえども立ち入り禁止である。我々の通う工場は、大崎の明電舎。通信機の部分品の作成。大都市に疎開命令が出され、田舎へ帰れぬ学童は、集団学童疎開に加わる。家庭用の砂糖配給停止となり、町のそこここに雑炊食堂が開かれた。
 父は、入舟町のお婆ちゃんの実家東村山の近くへ、一反の農地を手に入れ、その中央に家を建て、残る三分の二は畠とし自給自足の生活に入った。建てて間のない江古田の家は父の友人に貸し、入舟町のお婆ちゃんは、ゲンを連れ店を知り合いの同業者に貸して東村山に引っ越して来た。
 
 ゲンもハルも、朝早く起きて東村山から東京の工場へ通う。父は、大八車を手に入れ、焼けぬ内にと神楽坂から遠い道のりをものともせず荷を運ぶ。禿げた頭に濡れ手拭いをのせ、身に余る大八車はあべこべに父を引きずる。憑かれた父はひたすら荷を引く。父の身体はみるみる陽にやけ、小物の時計修理は手が震えて出来なくなった。人も車も戦に刈りだされ、必死で自分を守らねばならぬ時代に入った。
 
 三月にはB29の東京大空襲。江東区全滅。五月の大空襲では、都区内の大半が焼失した。神楽坂と江古田もすべて灰になってしまった。夕方、畠で何をするでもなく立ちすくむ父の後姿に、食事を告げに出たハルは、声もかけられず、惚けた父の肩に子として初めての老いを見た。    
 
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  1. 2009/06/22(月) 22:00:00|
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連載小説「神楽坂」第12回

連載小説「神楽坂」         第11回

第12回

 高村光太郎氏の「智恵子抄」が発刊され、北原白秋氏が亡くなられた。学生生活は奉仕の明け暮れで、勉強時間が少なくなった。すべて命令の枠の中で動いている。何やら口に出せぬ不安に、唯々ハルは本を読んでいた。ハルの家には、父の本箱と、母の本棚がある。父の本箱はの方は、豪華なガラス戸付きの中に、さして手垢にもまみれぬ本が数少ないもたれ合っている。岡本綺堂「半七捕物帖」の分厚い紺の表紙にはじまり、中里介山「大菩薩峠」と、隣には薄い和綴じの川柳の本が雑多に並べられている。どの本を取り出しても、一向に叱られないが、川柳の本にだけは手をふれても父は叱る。酒乱の父親と、目から鼻に抜ける母親、手のつけようのない遊び好きの弟を身内に、日がな使用人の目に囲まれ、妻に気兼ねのこの当時、父がたった一つ通した道楽が川柳であった。

 ハルが幼稚園の時、父に手を引かれ、たどりつけば一人で遊ばされたのは、向島の百花苑であった。細長い紙を手に、考え込んでいる集団の中の父は、家では見られぬ顔付きして楽しそうだ。ハルがおとなしく父を待てば、戻り道、浅草の松屋で好きなオモチャを買ってもらえる。川柳を「カワヤナギ」と始めに読んだハルが、あの時の集団の中で一番偉かった人はと、すぐる父に尋ねたら、川上あめんぼうと言い、その後、川上三太郎と名乗った川柳の神様だと教えられた。思うに、気の小さい父のせめてもの憩いは、斜にかまえた川柳の世界にこそあったのだろうか。

 母の本棚の方は、まさしくリンゴ箱の廃物利用で、ざらつく板に色紙を張り付け、控え目に部屋の隅につられている。控え目に置かれた程には、本の数は多く、本の内容は父の考えを突き抜けて大胆で、谷崎潤一郎「痴人の愛」「蓼食う虫」など、母の本棚から、ハルが繰り返し読んだ本には、賀川豊彦「死線を越えて」と、「太陽を射るもの」がある。いつからか、この二冊の得がたい本は消えていた。翻訳物は、軍医で戦に往った母方の昇叔父の本棚を漁った。カビくさい蔵の二階、わずかに差し込む陽を頼りに、セピア色に乾いた古本の匂いは、たぎる青春に安息をあたえてくれる。昼は、勤労奉仕、夜は読書、まるでインクのスポイトのようにハルは活字を吸い上げていた。
    
 
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  1. 2009/06/08(月) 23:00:26|
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連載小説「神楽坂」第11回

連載小説「神楽坂」           第10回

第11回

 街中には、「月月火水木金金の歌」が流行し、アメリカ映画は、全く上映禁止となった。十二月八日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲。年もおしつまると香港全島を占領した。明くる昭和十七年マニラを占領、ビルマに進撃。二月十五日には、シンガポール占領となった。暮らしは益々きびしく、味噌・醤油も配給制、衣料も配給切符制。その心細さに追い打ちを掛けるように四月十八日、アメリカB25爆撃機日本本土初空襲となった。あれ程、「本土空襲絶対なし」と国民にお約束の軍部宣言は破られ、民衆の不安感は募っていった。

 ハルは女学生になり、ゲンは中学の二年生になっていた。歴史はスピードをあげ、目隠しされた国民を駆り立てた。せっかく習えると思った外国語は随意科目となった。
 ハルの同期生に、当時内閣総理大臣の娘がいて、ニュース・カメラマンが現れて、勤労奉仕中の彼女の姿を写す。先生方は気を遣い、彼女も気を遣われる事に気を遣う。賑やかな集まりでいつも主役の取り澄ます顔の裏に、疲れた彼女の孤独をハルは見つけた。彼女にもあだ名があった。カボチャと言う。御当人は知るや知らずや、ふっくらおっとりと、小麦色の頬にソバカスを散らせ、当たりさわらずの取り巻きは、お手玉もバレーボールも、彼女が不利にならぬようさりげなく気を配っている。梅雨時の遊び時間は、校庭に出られぬ日が続く、カボチャの取り巻きは、彼女を中心に教室でお手玉。いつも本を読んでいるハルも、誘われてお手玉遊びに今日は加わっている。やがてカボチャがお手玉を落とした。次はハルの番だから、素早くそれを拾って始めようとした。取り巻きの一人が肘でハルの脇腹をつつく。ハルは気付かぬまま無頓着にもお手玉を始めた。取り巻きは静かに一人、二人と立ち去り、カボチャの笑う顔が目の前に残ると授業開始のベルが鳴った。

 風が立ち雲が流れ、梅雨空に晴れ間が覗いた。空だけ見ていれば、少しの間戦争を忘れた。期末試験の最終日、廊下ですれ違ったハルを、カボチャが小声で呼び止めた。
 「家へいらっしゃらない」
 家とはつまり首相官邸の事か、ためらいながらも、やっぱり首を縦にふっていた。
 長い植え込みが両側に続く玉砂利を敷きつめた道を踏みしめながら歩いて行く。所々に兵隊さんが静かに立っている。五人連れはやっと広い玄関に立つ。ここまでどうやって辿り着いたのか、ハルはまったく覚えていない。玄関の正面に、白木を彫って作られた等身大の大黒様と恵比寿様の像が左右にどっしりと置かれ、そのふくよかで神々しい像の影から、学校と違うおどけた笑顔あらわにカボチャが手招きした。我々は食堂に通される。十四、五人はゆったり座れる細長いテーブルの上座に、小柄な婦人が座っている。我々が末席から頭を下げると、気軽に「いらっしゃい」と一言。てきぱきと身近に控える女の人に用事を言いつけ、立ち上がりざま
 「私、お茶漬けでいいわ」と言い、奥に消えた。これがカボチャの母上様であった。

 まず、紅茶が出された。暫く国民が御無沙汰の真っ白な立方体、つまり角砂糖がお皿の横に二つ添えられてある。ハルは大切にスプーンですくい、真っ白な茶碗に沈め、ゆっくり溶けるさまをしっかり見つめた。
 庭に出て高台から街を見る。芝生の続くその果てに、懸命に生きる国民の住居がはるか下の方に散らばり、今立っているここだけが安全地帯と思えた。
 しばらくして、また食堂に戻る。緑茶が入れられ、忘れもしない厚切りのようかんが二切れ、白いお皿に斜めに鎮座ましましているではないか。ハルはハッとした。ハッとしたまま隣の友人の顔をのぞく。もうハッとした段階を終えたのか、友人は食べるに忙しい。角砂糖よりも大切に、この二切れをペロッと頂戴した。
 上気した顔のまま、疲れは全身を包み、足だけがせわしく長い植え込みをたどり、街に出た。我々は互いに声を無くし家路を急いだ。ハルの頭の中では、白いお皿と厚切りのようかんと、広い芝生の彼方に散っていた街の遠景、そればかりで、この日、カボチャと何を話したか記憶にもない。帰途、街中の標語がやたら目にとまる。

 「一億・一心」「ゼイタクは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」。

 戦時下の学生の青春は、時だけが平等であった。

 (つづく)  第12回

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  1. 2009/06/08(月) 22:00:00|
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連載小説「神楽坂」第10回

連載小説「神楽坂」           第9回

第10回

 ハルは、神楽坂にいても入舟町にいても時計の音に囲まれて育ってきた。数ある時計の中で、柱時計は売れてしまうと壁に空間が出来る。それで売れゆきがはっきりわかり、出来た空間に新しい時計が掛けられる。並べられている時計の位置を覚え、売れた時計の個数と型をハルはぴたりと当てる。幼稚園に通う頃から、これをゲームにして父と遊んだ。当ると父は、缶詰になった小さなメリークリームを買ってくれる。大物を直すのに使う太いねじ回しで、父が缶の上に二カ所穴を開けてくれると、甘くてとろとろの濃いミルクが吹き出し、ハルはそれをちゅっちゅっと吸う。だが時計は配給となり、店の壁には空間が広がり、メリークリームはもう売られていない。柱時計の中で神楽坂と入舟町のどちらにも、同じ製造元で作られた同じ型の柱時計が一つずつあった。これは兄弟のように標準時計として使われ、非売品である。神楽坂の方が少し大きく、どちらもウエストミンスター・チャイムで時を知らせる。この二つのチャイムは音程が少し違う。同じメロディーだが神楽坂のは響きが長く、入舟町のは短いが、なんとも快いメロディが流れ、十五分、三十分、四十五分で時を打ち、音・u桙フ長さが違うので、離れていてもおおよその時がわかる。ところが、戦争はいつまでも続き、この時計がうたうメロディーは、なんと言ってもイギリスはロンドンのウエストミンスター寺院の鐘の音。困ったあげく、この二つの柱時計には、それぞれの家の寝室にお引きとり願った。時計の中で育ったハルは、馴れきった音では目が覚めない。目覚まし時計の二つや三つ並べたとて、びくともせずに眠ってしまう。
 ハルが目覚まし時計で起きることが出来るようになったのは、のちのち嫁いで二、三ヶ月もたった後からだった。

 砂糖やマッチが切符制となった。食堂や料理屋では、御飯を売る事まで禁止されて、神楽坂の灯りはひとつずつ消え、母のお腹には、四人目の命が育っていた。年が明け、節分も過ぎた雪の朝。母が産気ずいたと病院からの知らせに、四人目も女であろうと諦め顔で病院へ出かけた父が小躍りして立ち戻り、あわてて男物の産着を探しに走った。お婆ちゃんは、跡取りの顔が見られると涙ぐみ、「お手柄、お手柄」と、いつになく嫁を称え、お赤飯の調達に出かけた。夏になって、以前より中野の江古田にある家作の前側に二軒家を建て、一軒をあるじが女子大に奉職する一家に貸し、その隣の広い家に七人家族が移り住んだ。父は神楽坂から週に二日この家に戻る。ハルも神楽坂の学校に通う。小学校は国民学校と名前を変えた。お婆ちゃんは、この家に移るとめっきり身体が弱く気も弱くなった。父は戻ると、凱旋将軍のように手に入れてきた祖母の好物を茶の間に広げ、祖母は父を英雄のように見上げる。父の名をしきりに呼ぶ祖母は、子供のように父に甘え、御注文通りの大きな檜造りの湯舟で、「極楽、極楽」と御満足であったが、その御満足の風呂の中で倒れ、七十三歳の命を終わった。

  (つづく)   第11回

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  1. 2009/06/06(土) 22:00:00|
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平成21年新春の御挨拶

謹んで、初春のお喜びを申し上げます。

本年もよろしくお願いいたします。

吾子の才 急ぎ追ひ来て 身は傘寿
(あこのとし いそぎおいきて みはさんじゅ)

八十歳になりました。

可久鼓桃

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  1. 2009/01/01(木) 00:00:30|
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連載小説「神楽坂」第9回

連載小説「神楽坂」           第8回

第9回

 二学期が始まる。
 「ドイツからあると、皆さんと同じ学生のお客様が見えます」
 朝礼で校長先生がおっしゃった。早々に校内の大掃除が行われ、分列行進の練習は飽きる程のくり返し、ドイツの学生は愛国心に富み、勇敢であると教えられる。お客様の一団は、ヒットラー・ユーゲントである。物珍しさよりも、ものものしさに疲れ、それはそれは緊張の一日であった。彼等の生き生きとした動きと、美しい配色の軍服が、まるで宝塚歌劇のドイツ編でも見るようで、しばらくはみんなの憧れになった。だが、その日ハルは日本とドイツの小旗を両手にふりながら、ドイツと言う国は利口で力強く、本当に日本のお友達なのかなー。それならば、それは何故なのだろうと考えていた。

 担任の吉田先生は、浅黒く面長な顔で、みんなに〈板チョコ〉と陰で呼ばれている。かなりお茶目でお転婆なハルは、男の子と対等な喧嘩をやる。〈板チョコ〉は、すっきりと平等な結末をつけてくれるから、叱られる度にハルは〈板チョコ〉を尊敬した。あれは国語の時間。とかく長びく最終授業だった。「大東亜共栄圏」と黒板に大書し、「君等が白髪となり、杖をつく頃、地球上には三つの大国しか存在せぬであろう。それは、アメリカ、ソビエト、中国に違いない。」〈板チョコ〉はそう言い切った。
 不安げな数々の小さな瞳は、日本が消える筈はないと次の言葉を待ったが、師は凍った目を窓外に飛ばし、「大きくなったら、すべてが見えてくる」とだけ、その後、この日のような授業は決してなく、〈板チョコ〉は日の丸を肩からかけ、奉公袋を手に教壇から立ち去った。国民学校第一回卒業生となる我々は、逆巻く時局の中で、この疑問を心の片隅に抱いたまま育ってゆく。

 戸山ケ原へ演習に出かける近衛の兵隊さんは、鉄砲を担いで毎日神楽坂を通る。往きは高らかに軍歌を歌い、帰りは余り高らかでない。往きは力強い軍靴の音の音も、帰りは余り強くない。帰り道、隊長さんが大きな声で軍歌の一節を歌い上げると、それに続いて疲れた兵隊さん達は、声を振り絞って歌い始める。
 子供等は、からの薬莢を貰いに隊列に駆け寄る。「こらーっ」。隊列の横をはみ出したように歩く偉い兵隊さんに叱られるが、顔馴染みの兵隊さんは、目だけで笑って、そっと、空薬莢を子供等の足許に投げてくれる。薬莢の数が多い子供は仲間うちで巾を利かせる。秋が来て兵隊さんの数が減ってきた。みんな戦争に行ったのだと、大人達は小声で話し合う。学校では亜細亜の平和を守る為、日本は戦っているのだと教えられる。

 パーマネントも禁止され、「ゼイタクは敵だ」のスローガンに、店の貴金属はみるみる減って、時計とメガネだけの商いへと移ってゆく。店の人達にも召集令状がきて、皆田舎に帰り、戦争に行ってしまった。とよさんは徴用にかり出され、店は父と母の二人。入舟町からハルは神楽坂に帰って来た。父は、時々奉仕隊を組んで、組合の人達と指定された軍隊へ時計修理に歩き回る。メガネをかけた出征兵士は、幾かけもメガネを持って、戦に出かけて行った。

 (つづく)   第10回

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  1. 2008/10/29(水) 23:27:12|
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連載小説「神楽坂」第8回

連載小説「神楽坂」           第7回

第8回

 陽に焼けた肌にお風呂のお湯は飛び上がる程痛い。二人の妹があがると、母はゲンとテルを呼ぶ。シャボンのついた大きなヘチマを構え、母は逃げるテルを追い廻す。ゲンは手拭いでそーっと洗ってさっさとあがってしまう。「ずるいや、ずるいや」と、ゲンの後を追いかけるテル。縁側に切った西瓜が並べられると、一番大きそうなのを真っ先にゲンが見付け、ペロペロと二、三個舐めて、「これ、俺の」。次にテルが二、三個舐めて、「これ、私の」。それを見た妹のカズが母に言いつけにかけ出す。今年もゲンとハルは並んで叱られる。従兄弟達は割合いおとなしい。

 従兄弟達の家には、家柄と躾にやかましいお婆さんがいて、家中の女の人を叱咤してオカラで長い廊下を磨かせ、ゆきとどいた明治生まれの目で躾けてゆく。従兄弟達の家は麹町で製本会社をやっている。ここへ嫁いだ叔母はテルの母とは水と油ほど性格が違うが、たまに神楽坂へやってくると、時計ばかり気にしてせわしなく涙をこぼす。姑の口のうるささは御近所でも定評。オカズの味付けから掃除の手順、果ては輿入れの道具のあれこれ。乳母日傘で育った入舟町の母親にゆったりと育てられた叔母が姑に追いつく訳もなく。忍の一字で首をたれたまま。せっせと三人男の子を産んで、末の子が這い廻り始めたある日、家の二階から叔母が落ちたという連絡が入る。取るものも取りあえず駆けつけた祖母と母、命に別条がなかったのが何よりと顔を見合わせ、しばらくは詳しい話もしなかったが、なんと始めに落ちたのは這い廻る末の男の子。運良く庇の端に引っかかって、手足をばたつかせる我が子を拾い上げるつもりで、目一杯手を伸ばした叔母は、虚空をつかみそのまま落下。子供のほうはまったく無傷で男手に助けられたと言う。その後、寒さが訪れると、叔母の足腰はうずいたが、口うるさい姑をひかえた療養は思うにまかせず、母の使いで尋ねたテルは、コルセットを付けた下半身を引きずり、勝手もとに働く叔母が痛々しく、どっちを向いてもお姑さんは恐いものと見せられて育ってしまう。

 ゲンとテルは、海に出るとと赤旗まではかるい。ゲンの方が背も高く泳ぎが早い。その後を負けん気のテルが追う。暗い内に起き出して、ゲンは近所の漁師の子と蛸つきに行く。その後をまたテルが追う。
 テルの家では毎年、浜に並ぶお茶屋さんからテントを借りる。名入りのテントだから、かなり遠目でもすぐに見分けられる。陽気な叔父が「これで家紋が入れば、葬式用のテントですな」と、シャレのつもりで言ったら、「縁起でもない、黄色地ですから関係ありません」と母がきっぱり言い返した。このテントは片流れで、大人が楽に七、八人はゆったりと座れる。子供等は、大人達が家から運んでくるおにぎりやゆで玉子を、番茶で胃へと流し込み、水辺にとって返す。「食後は、駄目、駄目」と母や叔母に追い回され、掴まえられてしまうと、テントの隅で濡れ手拭いを額に乗せ、無理に短い昼寝をさせられる。ただ、横になるだけでもそれが嫌さに、ゲンとハルは浪子不動尊が祭られる岩場へ蟹をとりに行ってしまう。
 オヤツは、お茶屋さんから岡持に入ったゆで小豆か、おでんが届けられるが、母と叔母は、砂地で作られる中身の白い「おいらん」と銘々されたさつまいもを、バスケットから取り出しもぐもぐ。カブガブと麦茶のお代わり。余り泳ぎもせず、お喋りと食慾だけだから、気にしている夏太りに拍車がかかる。風が強く、パタパタと黄色のテントが鳴っている。
 「今日は波が高いから、赤旗は駄目よ。」と母はくどい程の注意をする。

 赤旗の手前で泳いでいたハルの右足が急につった。急いで向きを変えたことが間に合わず、かかえた波乗り板もろとも高波に呑み込まれた。頭がガーンと鳴り、口元が痺れた。身体が音のない冷たい所へと引きずられてゆく。遠のく意識の中で、「お母さーん」と叫んでいる。折しもハルの腕を誰かが掴んだ。気付けば、大きなテントの中で硬いベッドにハルは横になっていた。白衣を着た医大の学生さんが数人周りを囲んで、枕許に手を合わせた母の顔。ハルは、一瞬もう拝まれてしまったのかと思った。口にたっぷり脱脂綿を咥えさせられて、喉がひりひりする。
 「気がついた、気がついた、もう大丈夫ですよお母さん」と学生さんが言う。
 濡れた水着は脱がされて、一糸まとわぬ身体は厚い毛布に包まれているが、寒くて手足が震える。咥えた脱脂綿のあたりが心もとなく、舌の先で探れば、なんと歯がない。上の前歯がきっかり二本折れていた。いつも首からさげている成田山のお守り札が胸元に真っ二つに割れぶらぶらと今にも落ちてしまいそうだ。母はお守り札を拝んでから、大切にちり紙にくるんだ。

 運悪く、夕方神楽坂のお婆ちゃんが東京の店に戻っていたトヨさんと、突然一緒に現れた。
 「ハル、お守り札が身代わりですよ」。おごそかなお婆ちゃんの声にさそわれ、ハルは涙をこぼし、言われるままに手を合わせた。
 「水には気をつけないと子供たちの飲み水も浴びる水も」。お婆ちゃんはきっちり座り直して母に言った。
 浴びる水などと言うので、隣の部屋にいた叔母が、トヨさんと二人で笑いをこらえかね、庭に飛び出してゆく。
  「海も今年でお終い、来年からはもう来られないでしょうよ」。奥の部屋から蚊帳越しに母の声。
 「そのうち、みんな戦争に行ってしまう」。入舟町のお婆ちゃんがため息をついた。浴びる水のお婆ちゃんは、向いの部屋で高いびき。

 八月になると土用波がやって来る。もう赤旗まで泳げない。浪子不動尊の岩場は寄せる高波に包まれ、飛沫が虹色に輝く。子供等はそろそろ夏休みの宿題のまとめに追われる。夏休み帳のまとめに追われる。夏休み帳を幾日分もたて続けに書いて、毎日の天気は積み上げた新聞紙をひっくり返して予報通り書き込んで行く、当たりはずれは仕方がない。解けない問題は代わる代わるゲンに聞くが、ハルとは一才違いのゲンは人ごとじゃないとうるさがり、自分の帳面だけ持って逃げてしまう。仕方なく母が大きなテーブルを出して、その通りに子供等を座らせ、「毎日やって置かないからでしょ」と言いながらも、目を通してくれる。
 八月を半ば過ぎると海辺のテントも疎らとなり、葭簀張りは店仕舞いを始める。今年の夏は、横須賀の三笠艦も見学せず、逗子の街もさほど賑わいもしなかった。

(つづく)   第9回

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  1. 2008/10/27(月) 23:00:00|
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連載小説「神楽坂」第7回

連載小説「神楽坂」           第6回

第7回

 テルが、牛込見附の停留所で、走るチンチン電車をぼんやり眺めていると、「テルさーん」と、健どんが自転車を押して、真っ赤な顔でとんで来た。「叱られる、叱られる」と節をつけながら手を叩き、自転車の荷台にテルをしっかり乗せた。
 当時、神楽坂のおばあちゃんは、まだまだ元気で、母と日がな陰湿な頭脳的冷戦を繰り返していた。祖母はテルが初孫なのに、やたら入舟町にやられるのを面白く思わず、テルが戻れば取り分け甘やかす。
 おばあちゃんが唄う、地獄・極楽の御詠歌は、神楽坂でのテルの子守歌だ。
 「地獄の鬼めがあらわれてー」の所にさしかかると、後は夢うつつで眠ってしまう。
 しかし、今夜は人さらいのお話をたっぷり聞かされて、テルはこわい夢を見た。
 ゲンは大人のトラブルなぞどこ吹く風、検査の結果、今年も大事なく、海に出かけて大丈夫と医者の折紙つき。どこかの大人が、父につまらぬ告げ口をしたばっかりに、テルは入舟町と神楽坂を、不自然に行ったり来たりした。

 逗子の家につくと、大人達はすぐさま大掃除。子供等は入舟町のおばあちゃんに連れられて砂浜へと、すっ飛んでゆく。神楽坂のおばあちゃんは、ひと夏に二度程しかやって来ない。逗子に行く時節になると、「お父さんの身の廻りは、私にお任せなさい」と楽しげに言い、いそいそと皆を送り出す。夏の間だけ店から母がいなくなると、大入りの日でも好きな夜食は現れず、三度の食事のおかずも粗食となる。
 代わる代わる逗子に泳ぎにくる店の人は、「おかみさんがいないと、まるでお寺のオカズです」と口々にこぼす。母は、近所でつぶした新鮮な鳥肉と魚を、神楽坂に戻る店の人に必ず持たせる。

 父には、たった一人の弟がいる。独身のまま、毎日映画と芝居見物に浮き身をやつし、飽きもせず宝塚歌劇の大ファン。三十歳の独身は、どこかおかしい人か病人だけだと大人達は陰口をたたく。かかさず通う宝塚歌劇に、毎月ハルは連れて行かれたので、ブロマイドを抱きしめあこがれる年頃には、テルはその先を見つめることが出来た。
 叔父のお役目には、テルとカズの幼稚園の送り迎えがあった。小春日和の午後。格別用事のない日は早や目に幼稚園にやってくる叔父。今日も子供用のブランコに揺られうとうと昼寝。五分刈りの白髪頭に山羊髭を生やした小使いの小父さんは、退屈を持て余す叔父を目の敵にして、竹ぼうきを片手に駆け寄ってくるなり、
 「子供用のブランコですから、大人は乗らないでください」
 半眼を開いた叔父、尚もウトウトと首だけは縦に振るが、一向にブランコから降りようとしない。山羊髭はいらだち職員室にかけ入った。やがて年配の先生を先頭に意気揚々と引き返した山羊髭は、うだうだとこの先生に状況説明。やっと気付いて立ち上がる叔父。古参の女先生は、白粉気のない顔で、半ぱ者を見下す態度もあらわに、何故ブランコに大人は乗ってはならないかと、こと細かな御訓戒。ペコペコと頭は下げても、叔父の目はとぼけて空を見上げている。ぞろっとした着流しに、ほのかな香水の匂いまでさせた、のっぺりの二枚目半では、とても幼稚園のお迎えの姿とは思われない。袖をかき合わせたなら、落語に出てくる朝帰りの若旦那の風情だもの。皆様のお怒りもごもっとも。正面玄関の鐘が鳴ると、園児はいっせいに玄関から駈けだしてくる。叔父は、母の言い付け通り駆け寄るテルのスカートをまくって、まず、パンツの有無をたしかめる。テルは、幼稚園の便所に入ると、家でやっているようにそっくりパンツを脱いで、つかまる為に作られた目の前の横棒にそれをひっかけ、用を足すとそのまま忘れて家に戻ってしまう。だからテルのパンツは、もらした分も入れると、一ヶ月にざっと一ダースは消えてしまう。
 
 テルが叔父に手を引かれ幼稚園を後にしたからといっても、まっすぐ家に戻るとは限らない。〈さわや小間物店〉の角から三軒目のお好み焼き屋で牛てんを食べるか、土手公園のベンチで叔父は昼寝の続きをはじめる。テルは松の木の間を飛び跳ねて叔父の目覚めるのを待つ。まっすぐに帰った時は、二階の広い押し入れの上の段で、毎度、狼と羊のおとぎ話を聞きながら、叔父に抱かれテルはすやすやと眠る。陽が傾き始めると、陽に当てたふとんを仕舞いにとよさんが、押し入れの戸をガラッと開ける。
 「あらっ、また」あきれ返って息を呑む。別段悪びれた風もなく、のそのそと起き出した叔父は、手拭いに石鹸箱と髭剃りをくるむと、テルの手を引き〈熱海湯〉に出かける。〈熱海湯〉と言っても熱海まで行く訳ではなく、坂の裏手にある銭湯の名前だ。お座敷前の芸者さんでお風呂は一番混む時間。帰りはお風呂屋の前の〈シバタ眼鏡店〉の縁台に腰掛けてひとやすみ、磨き上げた衿のほつれ毛をつげの櫛でかき上げ、せわしげに暖簾を分け、すっぴんの顔のままの急ぎ足のおねえさんおば品定め。

 さて、無類の食道楽な叔父は東京中の美味い店を尋ね歩く。日曜日は新宿の〈中村屋〉へ。カリーライスを食べにわざわざと出かける。伊勢丹の前には〈新宿日活〉がある。表のスチール写真の前に叔父が立っていると、支配人らしき人が駆け寄り、「どうぞ、どうぞ」と小腰をかがめ、叔父を映画館に招じ入れようとする。右手を鼻の先であわててふる叔父の手に、素早くテルがぶら下がった。
 間違いに気付いた支配人は、「失礼しました」と、それでも小首を傾げ振り返りながら引っ込んだ。ああ! これほど、叔父はアラカン(嵐勘十郎)さんにそっくりなのだ。
 この頃のテルは、とよさんに作ってもらった鞍馬天狗の頭巾を叔父に被せ、やんやと手を叩く。叔父もすぐその気になって、椅子に跨ると、馬上ゆたかな見得を切る。

 こうした太平楽な生き方も自分の父親の没後は、さすがに改まり、商いを嫌って勤め口を決め、仕事場に近い中央線の立川駅近くに世帯をもった。宝塚歌劇のスター小夜福子に似た口数の少ないおすましの新妻と連れ立ち、叔父は今年も逗子にやってくる。落ち着いた風でも賑やかさ改まる筈もなく、底抜けに面白い叔父の独演会は、逗子に集まる子供達のかかせ遊びの幕開けだ。お得意は、「愛染かつら」高石かつ江。東京駅で恋人浩三との別れのシーン。この極め付けを見ぬ事には、逗子の夏は始まらぬ。普段早や口の叔父も、この時ばかりはたっぷりと子供らを客に見立てての大熱演。先ずは母の長襦袢をはおり、叔母のショールに首を埋め、半分顔を隠すや、ホームの階段を息せききってあがる仕草、今しも発車せむとする電車の窓に愛する人を見とめ長襦袢をひるがえし駆け寄る。無情にも発車する車窓にすがり、くさい思い入れをここで延々と続け、「こうぞうさまーっ」と、絶叫するとおしまい。さすが、自分の奥さんと大人達の前では絶対やらぬが、子供達にはそっと見せてくれる。しつこく子供らにせがまれた朝は、叔父は一日中、ウキウキとして、子供達はワクワクする。夕食後開演のナイショの舞台は、裏庭のお稲荷さんの隣にあるお蔵の中。長い長持ちの影から踊り出る叔父の早替わりに子供らは大喝采を送る。

(つづく) 第8回

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  1. 2008/09/15(月) 12:52:53|
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